◆ 第七章  図書館


カミュの向っている図書館はうちの学校の広大な敷地の中央にあり、高校生から院生までが広く利用する。
普通の学校の図書館ではジョアンのような幼児は入館すらできないのだが、うちの大学には児童心理学科があり、そこの学生が休みの日には近隣の子供たちを対象にお話会を行なっている。 それを知っているカミュは俺をそこに参加させておいて、その隙に自分の調べ物をするつもりでいるのに違いない。
子供対象のお話会で何を聞かされるのかと思うと泣けてくるが、まさかカミュの隣りで、来週提出の流体力学の課題レポートに取り掛かるわけにもいかないだろう。 むろん、この身体のままだとしたらレポートもなにもあったものではないが、そのうちに元に戻るだろうと楽観している俺としては一応先のことも視野に入れているのだ。
「これからどこに行くの?」
正門内の緑道を吹き抜ける風が心地よく、握っているカミュの手の柔らかさも嬉しくて自分でも声の弾むのがわかる。 なにしろあのカミュと正々堂々手をつないで歩いているのだからこんなに嬉しいことはない。 シルクロードだって歩き通せる気分になろうというものだ。
「学校の図書館に行って勉強しなくてはならないんだけど、私がそうしている間、ジョアンはお話会を聴いてもらっていいかな?」
「お話会って?」
「大きいお兄さんやお姉さんがジョアンみたいな小さい子たちに面白いお話を聞かせてくれるんだよ、きっと楽しめると思う。」
「ふうん…」



   これのどこが楽しいんだ??

やわらかい緑色のじゅうたんのあちこちに三十人くらいの幼稚園や小学校低学年の子供が思い思いに座り込んだり寝そべったりしてサガの読む紙芝居を聞いている。 じゅうたんの周りを取り囲んでいる低い書棚から絵本を取り出してめくっている子供もいれば、サガのすぐ近くで真剣に紙芝居を見上げてぽかんと口を開けている子もいるのだった。
心理学のゼミで研究を続けている院生のサガはかなりの子供好きらしく、朗々とした声で表情たっぷりにアラジンと魔法のランプの話を読み聞かせ、その話術はなかなかのものなのだが、俺が夢中になれるはずもない。

   どうせなら千夜一夜物語のシエラザードみたいにカミュが俺に話を聞かせてくれればいいんだが………
   そうだ! 今夜寝るときにカミュになにか本を読んでもらうというのはどうだろう?
   子供なんだから手を握ってもらえるかもしれん!
   ちょっと恐い話でも借りていけば、震えながら抱きつくということも有り得るな♪

あれこれ考えて時間をつぶしていたが、次の紙芝居がこぶとりじいさんなのには参った。
いくらなんでも学年でベスト5に入るこの俺が、こぶとりじいさんを聞かされるのは苦痛にしか過ぎないのはわかってもらえると思う。 聖闘士星矢とかガンダムとか、そういった種類のものも購入すべきだと俺は思う! 元に戻ったらリクエストしてみるのがいいかもしれん!
俺はあくびを噛み殺すと、サガがこっちを見ていないのをいいことにそろそろとあとずさりして買ってもらったばかりのベージュの靴をはきその場を抜け出した。
いくら学生専用の図書館でも、現にお話会をやっているのだから小さい子供が書架の間を歩いていてもいきなりつまみ出されることはないだろう。 カミュは電子物理学の本を探している筈なので、歴史関係の本でも見ている分にはばれることもないに違いない。
上の方の本には手が届かないのであきらめることにして低い棚を見ていくと、「 百年前の日本 」 という大型の写真集が目に付いた。 こういう本は一番下の書棚に斜めに入っていて、小さい子供にも抜き出しやすい。
これは以前にも見たことがあるのだが、大森貝塚を発見したモースが当時の日本をありのままに写した写真や持ち帰った民具その他の膨大なコレクションを集大成したもので極めて面白いのだ。
時間つぶしにはもってこいだし、万が一誰かに見咎められても、写真が面白そうだったからという言い訳が出来るではないか♪
俺はその本を抱えるとなるべく目立たなそうな隅っこの椅子に陣取り、モースと親密な時間を過ごし始めた。

「ずいぶん難しいのを読んでいるんだね!」
はっとして見上げると、そこに立っているのは院生のアイオロスなのだ。
サガと同じく秀才で知られるアイオロスはやはり心理学を専攻していて、高校の俺たちのクラスに講師としてきていたことがあるのでよく知っている。
びくっとしてページを見れば、まずいことに写真はエドワード・S・モースの写真一枚きりで、とても子供向きとは思えない小さい活字でモースの業績が書いてあるのだった。 小さい子供が熱心に読むには向かないだろう。
「え〜と………」
咄嗟になんといっていいのかわからずに黙っていると、アイオロスが本を手に取った。
「ほう!やっぱり モースの写真集だ! とても面白い本だね、子供の頃に江戸東京博物館でこれの展覧会があって弟と一緒に見に行ったよ。」
「アイオリアと?!」
しまったと思ったときには遅かった。
俺と同じクラスのアイオリアは、自分の兄が講師として教室に来たときに恥ずかしそうな顔をしながら内心は誇らしかったに違いなく、兄弟のいない俺はずいぶんと羨ましかったものだ。 その後、アイオロスを見かけるたびに、アイオリアの兄さんか…なんて思っていたのだから今日も反射的に口から出てしまったのだ。
「え? どうしてアイオリアを知っているの?」
アイオロスが不思議そうに俺を見る。

   まずいっ、説明のしようがない!! どうするっっ?

小さい子供がアイオリアを知っていて、その兄のアイオロスのことも知っていて、三人の年齢は5歳と17歳と25歳という事実をどう説明すれば論理がつながるのかさすがにわからない。 クラスメートだ、なんて言えるわけがないではないか。
「あ……あの…」
真っ赤になって黙り込んだのはけっして演技でもなんでもないのだ。
「どこかで会ったことがあるかな?」
いかにも子供が好きらしいアイオロスはにこにこしながら訊いてくる。
「僕、もう帰らなきゃ!」
みっともないが、俺は自分が小さい子供だという事実にすがることにした。 大人なら行動に論理の裏づけが必用だが、幼児にそんなものは要りはしない。
首をかしげているアイオロスを残して大急ぎで出口に向うと、入館時にはカミュはIDカードを使い、俺には入館バッヂをつけてもらったのを思い出す。 一般の図書館とは違い、学内専用の施設は管理が厳しいのだ。 スピードを落として係員に  「もう帰る。」 といってバッヂをはずしてもらい、センサーの間を通り抜けた。

ひとまずほっとしたが、カミュを残して勝手に帰るわけにはいかないのだ。
仕方がないから図書館の入り口がよく見える木陰のベンチに座ってカミュを待つことにした。もうじき正午になるのでカミュもじきに出てきて俺を見つけてくれるだろう。
退屈だから外で遊んで待っていたといえば十分に通用する筈だ。
木製のベンチに腰掛けて足をユラユラさせていると自分の小ささが実感できる。 ベンチなんて足が地面に着くのが当たり前なのに、と思ってうつむいていたときだ。 誰かが目の前で立ち止まった。
「おや? 君は……ミロ?」
心臓が跳ね上がった。


   ※ 「 百年前の日本 」 ⇒ こちら