◆ 第八章  ムウ


   落ち着けっ!
   俺はジョアンだ、ミロじゃないっ!
   たった五歳の男の子なんだからな!

そう心にいい聞かせてから俺は顔を上げた。
「これは、これは! まるでミロが小さくなったようですね!」
悔しいほどに背の高いムウが俺を見下ろしている。
正直なところゾッとした。 こいつが俺に飲ませたあの 『栄養ドリンク 』 と称するものが幼児化を招いた可能性は高いのだ。
もし俺がミロだとわかったら、やつは喜々として俺をカミュから引き離し、得たりとばかりに実験動物扱いするに違いない!
わざときょとんとしているとムウが隣りに座ってきた。

   よるな、さわるな、あっち行けっっ!!

知らん顔して足をぷらぷらさせていると、しげしげと俺の顔を見て、いかにも疑っている気配がありありとわかる。
こんな危険なやつに隣りに座られるくらいなら、デスマスクに百回くらい高い高いをやってもらったほうがどんなにましか、しれはしない。ミロの親戚の子、というカミュの説明を素直に信じて小さい子を喜ばそうと遊んでくれたところなんかは、なかなかどうしていいやつではないか!なんだかデスが好きになってきた。
幸いなことにアフロディーテとは違い、俺の顔には目立つホクロなどありはしない。 髪や目の色が同じでも、この広い東京に金髪碧眼の外人の子供は掃いて捨てるほどいるのだ。 それに素性からいえば、俺の従兄弟の子供ということになっているのだから似ているのは当たり前なのだ。

   自信を持てば大丈夫だ、自分が子供だということを忘れるな!
   さっきのアイオロスのときのような轍を踏むんじゃない!
   アイオロスは性格がいいからまず心配はないが、ムウのやつは一筋縄ではいかないからな
   こいつにばれたら一発で拉致される!

「君、名前はなんて言うの?」
ムウがいかにもやさしげな声で聞いてきた。 反射的に、お母さんが知らない人に名前を教えちゃいけないって云ってた、とつっぱねてやろうかと思ったが、ここは子供っぽく可愛くしたほうがいいような気もする。
「ジョアン。」
「ふうん、いい名前だね、ジョアン。 おうちはどこなのかな?」
いい名前だと誉めてくれたのはカミュも同じだが、ムウが言うとどうしてこうも空々しく聞こえるんだろう? 人柄の差だとしか思えない。 だいたい、自分が名乗りもせずに人に根掘り葉掘りものを聞くのは失礼だとは思わないのか?
切り返したいのは山々だが、そんなことをしたら、自分から五歳児であることを否定するようなものなのでぐっとこらえて寮の方を指差して 「あっち。」 とだけ言うと弾みをつけてぴょんとベンチから飛び降りた。
このままどこかに走っていってしまえば簡単にケリがつくのだが、そうするとじきに図書館から出てくるカミュが俺を探し回る可能性がある。 しかたがないので、そこいらに落ちていた細い木の枝を拾って地面に絵を描くことにした。
こんなことははるか昔にやったきりで、何のあてもないままに丸や三角を描いていると、
「何を描いているのかな?」
いかにも、私は子供好きです、と言わんばかりにムウのやつがベンチに座ったまま身を乗り出して訊いてきた。
一瞬、「 楔形文字でハンムラビ法典。 第196条の目には目をと、第200条の歯には歯を、のところ 」 と言い返してやりたくなったがそこは理性を動員して 「 電車かいてる 」 というにとどめておいた。
「ふうん、ジョアンは電車が好きなんですね。 どの電車が好きなのかな?山手線?」

   ほんっとにしつこいな!
   俺がどの電車が好きでも、お前に関係はあるまいっ!
   そもそも俺が好きなのは電車じゃなくて、真紅のポルシェカレラGT、総排気量5700CCの名車だ!
   それに、山手線なんて普遍的一般的にすぎる路線はつまらなすぎる! どうせ言うなら…

「つくばエクスプレス。 去年の8月24日に開業したばかりで、ぴかぴかのすっごい電車!」
秋葉原とつくば研究学園都市を一本で結ぶこの路線はTXとも略称され、総延長は58.3キロ。 秋葉原の地下駅深くから発車し、南千住を過ぎて地上に出てからは高架上を走るため、踏み切りもなければ近隣への騒音公害もないというハイレベルの技術を投入したものなのだ。
いやしくもこのスコーピオンの…ではない、異邦人学園のミロが山手線風情を好きだとは言えるわけがない。 最新の情報を駆使してカミュと洗練された会話を心がけている俺としてはTX以下の電車を好きだという気は毛頭ないのだった。
といっても、それと絵を描く能力は別だ。

   くそっ、うまくいかんっ!
   アミノ酸の構造式を書くほうがよっぽど簡単だ!!       (  ⇒ こちら  )

つい真剣になり、パンタグラフとか連結部分の構造に首をかしげていると、
「ここで鳥の声を聴きながらお弁当を食べようと思っていたのだけれど、余分にあるからジョアンも一緒にどう? オレンジジュースもありますよ。」
俺をなんとか懐柔して正体を見極めようとしている魂胆が見え見えだ。
児童心理学をやっているサガやアイオロスなら有り得る話だが、普通の高校生が地面にお絵描きしている幼児を誘って一緒に昼飯を食べようとするか???それにオレンジジュースなんかより、清流七茶や伊右衛門の方が好みだぜ!
「お母さんが、知らない人からものをもらっちゃいけないって言ったもん!」
「ジョアンはしっかりしてるんですね! 今日はお母さんと一緒に来たのですか?」
ジョアンでなくても、今どきの賢い子供ならみんなこう言うに違いない。 残念なことに、日本の治安はもはや安全とは言いがたいのだ。 うちの学園の敷地内は制服・私服の警備員が二十四時間警備に当たっているが、それでも不審者が侵入する可能性は否定できない。

   だいたいこのムウこそが、友人を臨床試験の対象にしかねないやつだからな
   俺のプライバシーを探りたがるその態度が十分に挙動不審だぜ!
   2005年4月1日に全面施行された個人情報保護法を知らないのか??

ムッとした俺が黙って電車の絵にいそしんでいると、やっと図書館からカミュが出てくる姿が見えた。
実際にはジョアンの母親はいないのだから、ここでカミュが俺の今日の保護者であることを明確にしておいたほうが得策だろう。 いい加減でムウの執拗な追求から逃れたほうがいいのは言うまでもない。
手にしていた小枝を捨ててカミュに駆け寄った俺は、ことさらにニコニコして今日の保護者の周りにまとわりついた。
「ジョアン! ここにいたんだね。」
「うんっ♪」
「ずいぶん待たせてしまったね。 もうお昼だし、ジョアンもおなかがすいたろうからなにか食べようか?」
ほんとにカミュはきれいでやさしくて思いやりがあって、特に今の俺の目からは天使のように麗しく見える。 純真かつ天真爛漫な子供のいうことをはなから疑ってかかっているようなやつとは大違いだ! 人間の器が違うのだ。
「おや? カミュはその子と知り合いなのですか?」
「うむ、この子はミロの甥でジョアン。 ミロのところに遊びに来ているのだけれど、今のところは私が預かっている形になっている。 今日は一緒に図書館に来たのだ。」
「預かっているって、ミロはどうしたのですか?」

   余計なことを聞くなっっ!!
   それに、俺のカミュにそんなに馴れ馴れしく近寄るんじゃないっ!

「それが今朝から連絡が取れなくて………携帯にかけても電源を切っているし。 この子が独りでいたので連れて歩いている。」
ムウの目がきらりと光ったように見えたのは俺の気のせいだろうか。 一刻も早くここから離れたくなった俺はカミュをせっつくことにした。
「おなかすいたぁ〜、なんか食べるぅ♪」
「おやおや、私の誘いは断わっておいて、カミュにはおねだりですか。」

   当たり前だっ、誰が貴様なんかと………!
   カミュと一緒に昼食を食べるのは俺だけに許された特権だ♪

「では学食でご一緒しましょう。 うちの学食にはハンバーガーやフライドポテトもありますから、きっとジョアンも喜びますよ。 それにミロのことも気になりますし。」

   …え??
   貴様はここのベンチで自然と語らいながらおとなしく昼食をとるはずじゃなかったのかっ?!

「では、そうしよう。」

   カミュ〜〜〜っ!

俺はがっくりと肩を落とした。