その1 「 始動 」
「俺はこの赤にする。真紅の衝撃だから当然だろう。」
「私は……そうだな、やはり、」
「青にしろ。お前には水色に近い青が似合う。これなんか、いいんじゃないか?」
「身勝手だな。」
「青じゃ、いや?」
「いや、これにしようと思っていた。」
笑いあった二人がレジに向かった。
「だって、せっかく北海道にいるんだから、スキーをしない手はないだろう?今までやらなかったのが不思議だ。若さゆえの過ちってやつかな。」
連日放送されるバンクーバーオリンピックを熱心に観ていたミロがスキーを習うと言い出したのは、ダウンヒルやスーパー大回転を見てからだ。
NHKの番組 「 ミラクルボディー 」 でノルウェーのスビンダル選手の限界に挑む滑りを見て驚嘆の声を上げ、やがて始まったオリンピックで、そのスビンダルがダウンヒルで銀、スーパー大回転で金を取るに至ってミロのスキー熱に火がついた。 その後スビンダルは大回転で銅を取ったのだから、その実力は限りない。
「聖域にいたときは、オリンピックなんて言葉でしか知らなかったし、6年前のアテネと4年前のトリノのときは日本にいてテレビで見てたけど、やっぱりピンと来なかった。聖域の暮らしは特殊過ぎて一般社会の情報が枯渇しているから、スポーツの種類もルールもよくわからない。俺たちって、ある意味純粋培養だと思わないか?。聖闘士に特化してる。」
聖域に暮らしていればおのれが聖闘士であることになんの疑問も持たないが、日本に5年も住んでみるといろいろな機会に世間とは感覚が違っていたことに気付かされる。
「知識はたしかにある。オリンピックが四年に一度で夏と冬に別れていて上位三人は金、銀、銅のメダルがもらえるとかさ。でも、みんなが開催を待っているとか、自分の国で開いてほしいと思ってるとか、自国の選手が勝つことを期待するとか、そういう気持ちなんか全然知らなかったからな。そんなことは聖域を離れてみないとわからない。そういうのは本で読むんじゃなくて、肌で感じなきゃ、生きた知識にはならないな。アテネオリンピックのときに聖域にいたとしても、きっと何も感じなかったと思う。」
この宿に滞在してやがて日本語が理解できるようになると、二人にも日本人がオリンピックを楽しみに待つ気持ちというのがわかるようになってきた。
人気のある競技はいつも話題になっているし、オリンピックシーズンともなればどの選手が代表に選ばれるかが国民的関心事なのだ。とくにフィギュアスケート代表選手の選考過程は去年の秋から詳しく報道されてたいへんな盛り上がりだったのは記憶に新しい。
「日本に来た当初は言葉もろくにわからなかったから、いくら世界トップクラスの選手が競う競技といっても、映像だけじゃ面白くもなんともなくてさ。」
どこの国でも、自国の選手が出場する競技を中心に放送するのは当然で、日本語にも日本人選手にも馴染みのなかったミロがあまり関心を持てなかったのも無理はない。
そうはいっても、聖火の採火式は古代オリンピック発祥の地ギリシャのオリンピア遺跡で行われるし、開会式の入場もギリシャが先陣を切る栄誉を担ってはいるのだが、オリンピックにギリシャが送り込んで来る選手は少なくて、ここ日本で彼等の活躍が映像に映る可能性は限りなく低かった。
「だからオリンピックのスキー競技にも、あんまり興味がなかったんだよ。クロスカントリーとか大回転とか、あんなに種類があるなんてまったく知らなかったな。オリンピック好きの日本人だって、日本の選手が出ていない競技はあまり熱心には見ないし、そんな競技の放送時間もかなり短いからな。」
仮に日本人が出ていなくてもフィギュアスケートは人気だろうが、ミロはフィギュアに関しては男子にも女子にも興味がない。
「きれいだし、素晴らしい技術なのは認める。トップクラスの選手は、聖闘士でいえば明らかに黄金クラスだろう。4回転を決めるときは滞空時間わずか0.7秒だというからな。聖闘士でもないのにそれを可能にするのは恐るべき修練の賜物だ。」
ミロの言うには、そういった技術的な面には感心するが、楽しんで見る気にはならないのだそうだ。
「だって女には興味ないし、俺にはお前がいるからな。どうしてほかの男を見なきゃならんのだ?」
「どうしてって…」
むろんカミュにも説明できない。実はカミュには気になる選手がいるのだが、どうしてそれが言えるだろう。
「それよりスキーだ。俺は見ているだけですませる気はない。限界まで挑戦してぎりぎりのスピード感を楽しみたい。ダウンヒルすなわち滑降なんて、時速160キロ出ることもあるんだぜ!標高差853メートル全長3105メートルの難コースを2分たらずで滑り降りることを想像すると血がたぎる!これこそ黄金の滑りだな!このオリンピックではトップから1秒以内に15人がひしめく大激戦だった!男ならこれだろう!スキーの醍醐味は滑降に尽きる!ぜひ、やってみたい!」
ミロの気持ちは理解できるが、アマチュアがそんな超絶技巧を必要とする苛酷なコースを滑ることが可能なのか、カミュにもまったくわからない。
自動車レース最高峰のF1レースに出るには豊富な経験と優れた実績を持つ者だけに与えられるスーパーライセンスが必要だが、オリンピックのダウンヒルを滑る選手にもそれに匹敵するライセンスがあってしかるべきだろう。そのくらいに危険な競技であることは間違いない。生身の身体で時速160キロというのは想像を絶する世界なのだ。
「しかし、危険すぎるのでは?あのスビンダル選手でさえ、2シーズン前に生命が危ぶまれるほどの大怪我をしている。」
アテナとともに地上の平和を守る責任がある聖闘士が私事において危険な行為をするべきではないというのがカミュの持論であり、むろんそれは正しい。
「大丈夫だよ、俺だって生命を失うような危険を冒すほど無謀じゃない。普通の人間だと滑降で時速100キロも出ようものなら、極度の緊張で神経が張り詰めたりパニックになったりしかねないが、俺達がそうなると思うか?」
「いや、全然。」
「だろ。黄金クラスの勝負なんて千分の一秒のレベルで決まるんだぜ。瞬時の判断が生死を分けるってことは身体が覚えてる。高速に対する恐怖がないから状況に応じて的確な判断ができるし、万が一、コースを外れたり転倒したりしても慌てることなく対処できる。危ないと思ったら手近の雪の上にテレポートするだけの話だ。テレポートに慣性は働かないから、直前の移動速度が時速160キロでも安全に着地できるし、なんの問題もない。趣味の世界でミスして地上に危機を及ぼすなんて、有り得ない。」
もっともである。
スキーを習いたいという二人の希望を聞いた宿の主人が推薦してくれたのは、車で30分ほどのところにあるスキー場のスキースクールだ。コーチ陣には元オリンピック選手が5人いて指導法に定評があり、バンクーバーオリンピックにもこのスキースクール出身の選手を送り出しているという。
スキーを始めると決めたミロは、まず用具の選定に取り掛かった。いまどきは店を探し歩かなくてもネット上で好みのものを見つけることができる。
「私たちは初心者ゆえ、まずはレンタルスキーで小手調べをして、続けると決めた段階で用具を買い揃えたほうがいいのではないだろうか。」
「え〜っ、最初からキメたほうがかっこいいぜ!」
「スキーは格好ではなく、理論だ。」
「いや、スキーは滑降だ。」
「そういう意味ではない。」
「わかってるけど言ってみた。」
スキーウェアや板のブランドに一切の関心を示さないカミュが検索したのは、スキーの理論、用語、歴史、雪質などの基礎知識である。
「でも黄金にレンタルスキーなんて似合わないぜ。」
「そうか?」
「そうだよ。俺達は期待に反したことをしちゃいけないんだよ。そんなことをしたら全国のファンが泣くぜ。」
「?」
そのあたりの理論がカミュにはわからない。
「板はやっぱりロシニョールだろう。喜べ、フランスのメーカーだ。で、ビンディングはSALOMON、ブーツはLANGEあたりかな。ウェアはデサント、フェニックス、ミズノ?どれがいいんだ?ゴーグルはUVカット加工でダブルレンズのを選ぶから心配するな。どんなのが似合うかな?ゲレンデでふとゴーグルをはずしたお前の美しさに目を奪われるなんて状況を思うとワクワクするね。それからSPF50の日焼け止めも必需品だ。お前が雪焼けするなんて犯罪行為だぜ。」
「シベリアでは日焼け止めなど使わなかったが。」
「あれはサガが悪い。用意するのが当たり前だろうが。俺が気が付いて日焼け止めを持って行くまでは、シベリア時代のお前はシャカやムウより色が黒かったんだからな。まったく許せんな!」
「わかった、わかった。」
このような経緯で、ミロは赤に白のロゴの入った板に白のビンディングとブーツ、カミュはブルーのグラデーションの板にミロと同じビンディングとブーツを揃えることとなった。むろんこの冬のニューモデルだ。
「黄金が去年のモデルなんて、全国のファンが…」
「わかった、わかった。」
じつはなんにもわかっていない。
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北海道に暮らし始めて6年近く。
ああ、それなのにスキーをしていませんでした。
しかし、2010バンクーバーオリンピックを見て一念発起。
雪が消えるまで毎日スキー場通いかも。