その13   「 素性 」

11時になって宿泊客がチェックアウトしてから美穂による講義が始まった。むろん宿の主人の公認だ。
それによるとヤルノとナノはモータースポーツ界の頂点に君臨するフォーミュラ1、通称F1のレーシングドライバーだというのだ。現在参戦している12のチームにはそれぞれ2人のドライバーがいて、全部合わせても世界でたったの24人。その座を射止めることがいかに至難の業であるか美穂が力説する。実力がなければ一年で去ることも珍しくはないという。
モータースポーツの人気が高いヨーロッパ圏ではF1ドライバーは最高の尊敬の対象で、貴族に肩を並べるような国もある。
「そういえば、F1って聞いたことがあるような気が。」
「まぁぁ、ミロ様…」
あの有名なセナやシューマッハのことさえ知らない人間もいるのだから、聖域に暮らしてきたミロとカミュがフェルナンド・アロンソとヤルノ・トゥルーリを知らなくても不思議はないが、それでも美穂は思う。

   6年も日本にお暮らしなのだから、F1くらいは知っていてくださってもいいのに!
   まさか、K−1なら知っているなんておっしゃらないでしょうね?
   そんなことは絶対に納得できないわ!

気を取り直した美穂が言うには、ナノは19歳の若さでスペインで初めてF1ドライバーになった超有名人で、国に帰ればものすごい人気なのだという。その行動は逐一報道され、パパラッチに狙われるのは当たり前。どこに行っても付きまとわれて、それが嫌さにあまり帰国しないという噂があるくらいの人間だ。国の英雄なのでカルロス国王にも親しく話しかけられるという華やかな経歴を持つ。
「2006年のスペインGP (グランプリ) では決勝前に国王を助手席に乗せてサーキットを一周なさいまして、そのあとすぐのレースで優勝なさいましたのよ。これ以上ない展開ですわ。ほんとにすごい方でいらっしゃいます。」

   それって、アテナと二人でパーティーに行くのよりすごいのか?
   う〜ん、よくわからんな?

頼み込めば実現しなくもなかろうが、そんなことをする理由がまったくないので仮定としても有り得ない。
「なぜ、私がミロと二人でパーティーに行くのでしょうか?」
そう言われてなんと返事が出来るのだ? スペインの国王と比べるためです、などと言えるわけもない。

そして、ナノより7歳年長のヤルノはF1レーシングドライバー歴14年目のベテランで、2002年から2004年にかけてナノと同じルノーにいて、その時に二人は親友になったのだそうだ。
「ヤルノ様は去年までTOYOTAにいらしたんですのよ、私、もう嬉しくって!でもTOYOTAがF1から撤退してしまったので、今年からFに新規参入したマレーシア資本のロータスというチームに移籍なさったんです。」
「リーマンショックが引き金となった世界同時不況の影響で自動車業界の業績悪化が影響し、さしものTOYOTAも経営を見直さざるをえなくなったのだろう。そういえばそのころにF1という言葉を聞いたことがある。」
「まぁ、カミュ様…」
そこまで知っていてF1が何のことなのか調べていなかったらしいのが美穂には少し悔しい。
「ふ〜ん、そうなんだ。まったくリーマン絡みではろくなことがないな。 で、ルノーってどのあたり?フランスっぽいけど。」
「いえ…地名ではなくてF1のレーシングチームの名前ですわ。ルノーはフランスの自動車会社で、日産のカルロス・ゴーン社長はルノーの方です。」
「カルロス・ゴーンなら知っている。日産自動車の社長兼最高責任者CEOで、類まれなる経営手腕を発揮して日産の経営を再建させた人物だ。フランス語、アラビア語、英語、スペイン語、ポルトガル語に堪能で、日本語もかなり話せるという。日本文化への理解も深い。ルノー・日産連合はつい先日独ダイムラーとの資本提携合意について発表したばかりだが、そのルノーがF1に関係しているとは知らなかった。」
カミュの広範な知識はF1から離れたところで発揮される。知識のギャップに美穂はため息をついた。

「なるほど。すると3月から11月までほぼ2週間ごとに世界各地で全19回開催される今年のグランプリシリーズの初戦をナノが勝利で飾ったというわけだ。」
「そうですわ、とてもすごい事なんですのよ。そのアロンソ様がついこないだまでここにお泊りになっていらしたなんて信じられません、夢みたいです。世界を転戦なさるので10月には日本にもいらっしゃいますわ。」
「そのバーレーン戦って、ヤルノはどうだったの?」
「それが…」
美穂がため息をついた。
「マシンの状態が悪くてトゥルーリ様は17位だったんですのよ。でもそれは運が悪かったんですの、けっしてトゥルーリ様のせいではありません。途中でエンジンがだめになって、それでも完走できたのはトゥルーリ様の腕ですの。普通ならリタイアしてますわ。F1のマシンはチームによって基本性能に差がありすぎて、ドライバーの腕だけでは上位に上がれないことが多いんです。」
「17位……それは……で、マシンって?」
「F1の車はマシンといいます。普通の車とはまったく違いますでしょう。車なんかじゃなくてマシンですのよ。」
いやに力が入るところをみると、そのあたりが重大らしい。
「マシンの戦闘力とドライバーの腕がかみ合って初めて上位を狙えるんです。ほんとに過酷な世界なんです。」
「戦闘力!」
「ええ、レースをご覧になればお分かりになりますわ。競争というより戦闘です。」

   戦闘力ってドラゴンボールに出てこなかったか?
   たしかナメック星でフリーザやべジータがスカウターっていうのを使ってたような気が…

いや、その戦闘力ではないのだが。
それにしてもF1のマシンを戦闘力で数値化すればヤルノがどれほど腕ききかわかるというものだ。ナノはデビュー以来の10年間、常に上位を狙える高性能のマシンに乗り続けており、それに本人の腕と運が味方して輝かしい戦歴をあげているが、ヤルノは一度としてそんなマシンに乗ったことはない。それでもこの厳しいF1の世界で14年も現役で活躍していること自体がその技量の証明に他ならないのだと美穂は言う。
「それにしても、トゥルーリ様とアロンソ様をF1ドライバーだとご存じないとは思いませんでした。てっきりご存じの上でお連れになられたのかと思っておりました。」
「だってスキー場で知り合っただけで、名前と国籍だけしか聞いてない。職業なんか関係ないし。友達にそんなこと聞く必要ないから。」
ヤルノとナノのことをさらっと友達と呼ぶところが美穂の羨望を掻き立てることなどミロは知りもしない。日本で友達ができないとこぼす割には最初にできた友達が桁外れにすごすぎはしないかと美穂は思う。
「それはそうですけど……知り合いを二人連れていくからというお電話をいただきまして、タクシーがついたのでお迎えに参りましたら、なんとご一緒に降りていらしたのがトゥルーリ様とアロンソ様なので気絶するほど驚きました。私、大ファンなんですのよ。」
美穂が恥ずかしそうに頬を染めた。
「でもそんな素振りはなかったが?」
感心して聞いていたらしいカミュが尋ねる。
「それはお客様でいらしたのですもの。私どもがきゃあきゃあ騒ぐわけにはまいりませんし。普通にお迎えしましたが蔭ではたいへんで。」
「え?そうなの?」
「F1のファンは何人もおりまして。関心のない人はなにも知らないんでしょうけれど、もう夢みたいですわ。ミロ様とカミュ様がお連れになったなんてさすがだと、みんな大興奮いたしましたの。」
ヤルノとナノが署名した宿泊簿はすでに宝物扱いで、職業欄に racing driver と書かれているのを見て感嘆のため息が洩らされたのだ。静かな休日を過ごしたいに違いない二人の意を汲んで、素性を知っている素振りは誰もおくびにも出さなかったし、その間に宿泊した客たちも節度があって、サインを求めたり写真を撮ろうとする者はいなかった。ただ遠くからそれとなく眺めて、高名なF1ドライバーと同宿になったことをひそかに喜んだのである。
「あの人たちって、ヤルノ・トゥルーリとフェルナンド・アロンソですよね?」
「お客様のプライバシーについてはお答えいたしかねますが、日本の休日を静かにお楽しみになっておられます。」
そう答えると、内心で二人の身元を確信した客たちは邪魔をしてはいけないと考えてそっと見守っていてくれたのだ。もっとも当の二人は静かどころか、温泉に喜び、手の込んだ料理に舌鼓を打ってワインを酌み交わし、毎日スキーに出かけては大満足で宿に戻ってきたのだが。フランス語、スペイン語、イタリア語、ギリシャ語、日本語が飛び交う会話はにぎやかで人目を惹くことこの上ない。おまけにその合間に翻訳機のコンピュータ音声まで加わるという、きわめて珍しい眺めだったのは間違いない。
人目を気にせずに、ヤルノ、ナノ、と呼び合っていたのだから熱心なファンにはその素性は明らかだった。素の彼らを見ることが出来たファンにはたまらない眺めである。
「ふ〜〜ん、そうなんだ!ところでナノが優勝したんだからお祝いメールって打ったほうがいいかな。優勝ってすごいから。ヤルノにはなんて書けばいいかな?きっとがっかりしてるだろうし。こういうのって難しいな。」
「まぁぁぁぁぁ〜〜っ、ミロ様、お二人とメールなさるんですかっ!!まぁぁっ!」
「だって友達だから。ああ、そうだ。そのうちヤルノからワインが届くことになってる。」
「えっ!トゥルーリ様のワインがご本人様から!」
「うん、フルボディの赤がおいしいらしい。」
「トゥルーリ様のワインはイタリアでも有名なワインですのよ!あらまぁ!」
ますます美穂の羨望の念は高まった。