その6   「 突発 」

その翌日、スキースクールを3時半に終えてから中級者コースにいくとヤルノとナノがいた。そのあたりの日本人とは明らかに身のこなしが違っていて遠目にもすぐわかる。
「あそこまでうまいと大回転くらいは簡単にこなせそうだな。いつになったらあんなふうに滑れるんだ?」
「焦ってもしかたがない。正確な基礎技術を身につけていけば我々も必ず到達する。」
「それはわかってるけど悔しくない?」
「それは……実は悔しい。」
「だろ。」
降りてきた二人に挨拶をして一緒に滑っていると、ミロが小さなギャップをスピードをつけて跳び越えた。とはいってもせいぜい5メートルくらいしか跳べないのでクラウチング体勢を取る暇もないが、今のミロにとっては貴重な場所だ。
コースのすべてが平らとは限らない。ちょっとしたコブのように雪面が盛り上がっていると、越えた拍子にジャンプができる。それを人工的に規則正しく配置して競技コースにしているのがオリンピックでお馴染みのモーグルだ。オリンピックの滑降 ( ダウンヒル ) では大規模なギャップが作られていて、まるで弾丸のように宙を跳ぶ豪快なジャンプが行われるのは周知のことだ。そのぶん危険性も極めて高く、一瞬のミスが死に繋がることもある。
「あ〜、物足りない!もっと大きいギャップを越えてみたいのに!上級者コースには大きいのがあるかどうか、ヤルノに聞いてくれないか?」
ミロが望むのは少なくとも10メートルはジャンプできるようなギャップである。もちろん50メートル、いや100メートルくらい跳んでみたいのは山々だが、技術の習得には段階を踏んでいくほうがよいことは心得ている。
「あっちに大きいギャップはあるけど、まだ危険だと思うな。見た目より迫力あって、空中で姿勢を崩すと着地面に叩き付けられる。靭帯を切ったり骨折したりしたらちょっとまずいし。」
カミュがほっとしたことに、ヤルノは賛成してくれない。
「趣味の世界で命を賭けることはないと思う。仕事のときはやむを得ないけど。むろん仕事でも死んじゃいけないけどね。」
ヤルノから話を聞いたナノも頷いた。
「仕事に命をかけるっていうのはそれをするに値する経験と実力を持っているものだけに許されるんだよ。そうでなきゃ、命を捨てるだけだ。徐々に腕を上げていけばいい。」
「だそうだ。」
二人の意見をカミュが通訳してくれる。
「う〜ん、危ないと思ったらテレポートするから大丈夫だ、って言っちゃだめか?」
「だめだ。」
かくて、上級者コースに行くというミロの夢はついえた。ミロががっかりしたのがわかったのだろう。
「そんなに大きいギャップを越えたいなら、次の冬に二人一緒にサン・モリッツにくるといい。歓迎するよ。オリンピックや世界選手権に出るような選手もトレーニングに来るくらいだから、上級者コースの難易度は高い。競技向けのコースもある。きっとミロも満足できると思う。ただし、それまでに腕を上げたらの話だけど。『 いのちだいじに 』 ってわけ。」
ヤルノがウィンクする。ことによるとゲーム好きなのかもしれない。
残念ながら日本国内には滑降のコースがないので、たとえ実力があっても本格的に経験するには海外に行くしかないというのが現状だ。
一般庶民は世界有数の保養地サンモリッツにはおいそれとはいけないが、ミロとカミュには暇も資金も潤沢にあるのだから、なにも迷うことはない。今のところ聖戦が起こる気配はないし、万が一そんな事態が勃発したらスキーのことは一切忘れてカミュとともに戦場に馳せ参じ、一命を賭するだけの話だ。
こうして来シーズンの目標ができた。
「ようし、そういうことなら頑張らせてもらおうじゃないか!サン・モリッツに行ったら通訳は頼むぜ!」
「サンモリッツの公用語はドイツ語とロマンシュ語だ。英語とフランス語もある程度は通じると思うが、この機会にドイツ語を覚えておくのもよいだろう。」
「スイス語じゃなくて?」
「スイス語というものはない。ドイツ語圏、イタリア語圏、フランス語圏、ロマンシュ語圏に分類されている。」
「ふ〜ん、日本なんかどこに行っても日本語が通じるのは、覚えてしまえば便利だな。」
その、覚えるまでが大変なのである。今でこそミロも漢検2級は確実に取れるだろうが最初のころは四苦八苦したものだ。
「だって文字の数が日本は無尽蔵だろ。ギリシャ語なんてたったの24だぜ。天と地ほどの開きがある。」
もっともである。
「平仮名、カタカナ、漢字、それぞれ書き順まで指定されてるし、漢字の読み方も一種類じゃないし。聖域が日本にあったら、俺もお前も日本語習得にどれだけ苦労したかわかったもんじゃない。小さい子供には酷だ。」
まことにごもっともである。

その午後はここ数日の暖かい陽気のせいで、ところどころに土が顔を覗かせているという悪いコンディションだった。
特にそれが目立つのはコースの中程の大きく右に曲がるカーブの辺りで、かなり左端に迂回するコース取りをする必要があり気を使う。
「明日からはまた寒波が来て、雪が降る日が続く。今日だけの我慢だ。」
「あそこの土が露出しているところがどうにも気になるな。サービスで雪を降らせて、あそこを埋めるってだめか?」
「却下する。」
「そう言うと思ったけどね。それにしても滑りにくい。まあ、実力でカバーするからいいけど。」
たしかにそのくらいの実力はある。その部分の荒れはあらかじめわかっていることなのでうまく迂回していたのだが、何回目かに滑っていたとき先頭を滑っていたナノがどうした弾みかバランスを崩してあっという間に左に突っ込んでいった。ゆくての木の下には露出した岩がある。
「ナノっ!」
すぐ後ろを滑っていたヤルノは避けられない惨事を脳裏に描いて蒼白になった。
考えている暇はなかった。三番手にいたミロがヤルノの声にハッとしてそっちを見たときナノは岩にぶつかる寸前で、ミロはこれから起ころうとしている事態を回避するため一瞬でテレポートしてナノの身体をつかまえると即座に視界の隅に映った雪溜まりに再度のテレポートを敢行した。岩までは10センチもなかっただろう。100分の一秒を切るレベルで連続したテレポートをやってのけたのだ。
「うっ…」
あまりにも体勢が悪い。雪が二人の身体を受け止めてくれたのはいいのだが、深い雪溜まりに頭から突っ込んで腰まで埋まっており、おまけにナノの膝で胸を圧迫されているらしくてろくに呼吸ができない。雪の壁の向こうからカミュとヤルノが駆け付けてくる気配がわかったが、ミロは掘り出されるのを悠長に待っている気はなかった。

   どうせ見られているんだから かまわん!
   アナログで救出されるのをのんびり待っていたら、こっちが窒息するぜ!
   それじゃ助けた意味がないだろう!

こうしてミロはもがくナノを抱えたまま、ミロとヤルノの目の前に忽然と姿を現したのだった。
「うわっ!」
ヤルノの叫びがやけに大きく聞こえた。


                                    





                見せ場です、ミロ様、やっちゃいましたね。
                ナノの命を救ったというのは功績大ですが、いかが?