その8   「 温泉 」


家族風呂にナノを案内してゆくカミュと別れたミロは、ワインを乗せた盆をスタッフから受け取るとヤルノを露天風呂に連れて行った。言葉が通じないのは残念だがなにも困りはしない。念のために翻訳機を持ってはきたが、ヤルノは日本の風呂の入り方は知っているし、雪の露天風呂を気に入ってくれることは確実だ。
脱衣室の段階からわくわくしていたらしいヤルノが外へ出た途端に歓声を上げた。60cmほど雪が積もった真っ白な日本庭園の中で盛んに湯煙りが上がり、広々とした湯の全体を見通すことは難しい。身を切るような寒さに心身ともに引き締まり、朝夕入り慣れたミロでも特別な気分になる瞬間だ。写真でしか知らない雪の露天風呂を初めて見たヤルノの感想を聞きたいところだがこればかりは仕方がない。
湯の近くの平らな石の上に盆を置いてから、感動しているヤルノを引っ張って洗い場に行き、手早く何杯も湯をかぶってから合図をして湯の中に連れ込んだ。
「Io sono veramente splendido ! Era buono venire ! 」
しきりになにか言っているのはイタリア語だ。きっと 「最高だ!」 「ほんとに来てよかった!」 とか言っているのに違いない。
気温が低いのでもうもうと湯気が上がり互いの顔もぼんやりとしか見えないので、いざ湯の中に入ってしまえばなにも恥ずかしくはないのだが、カミュもナノもそれまでの過程に堪えられないのだろう。

   こんなに気持ちがいいのにな!
   カミュはたまに露天風呂に来るし、その気持ち良さもよく知っているが、ナノが入らないのはもったいない話だ

手足を伸ばしてのんびりと湯に浸かるのは最高の気分で、何年経ってもその感動は変わらない。日本人はよく、生まれ変わったような気がするというがミロもまったく同意見である。

   毎日生まれ変わってるから、ずっと二十歳のままなのか?
   いや、それは論理的じゃないな

肌をきれいにするという重曹泉に何年間も朝晩ゆっくり浸かっていればよい影響があることは間違いない。都会暮らしの人間には望むべくもない環境だ。
肩まで浸かっていると身体の芯からあたたまり、冷気にさらされている顔が心地好い。ヤルノはどうかな、と見てみると、目を閉じてうっとりと背中を岩にもたせかけている。
そのまま5分ほどしてからヤルノの肩をつついて合図をすると奥の打たせ湯に連れていった。音だけは響いていたが、なにしろこの湯気だ。そんなものがあるとは思わなかったヤルノを身振りで腰掛けの石に座らせるとミロも隣で肩に湯を当てる。
肩を指さして 「マッサージ」 と言ってみると、イタリア語でもそれほど発音に違いはないのかヤルノが頷いて指でOKの合図をして見せた。
腰までしか湯に浸かってないが、ついさっきまで十分に暖まっていたので気温は零下でもしばらくは大丈夫だろう。肩に当たって砕けるしぶきが湯の表面にさざ波を立てる。親指を立てたヤルノがミロにウィンクしてみせてミロも即刻同じことをした。どちらからともなく笑い合い、相手が温泉を心から楽しんでいることに満足した。

   家族風呂に行ったナノはどうしてるかな
   風呂にはあまり興味がないらしいが、日本に来たからには風呂を楽しむのが道理というもので……
   あれ?待てよ?今日の家族風呂は……

ミロがくすりと笑った。


あらかじめヤルノがナノに家族風呂の入り方についてレクチャーしていたのはわかっているのでカミュも特に心配はしていない。一時間単位で貸し切りになっているからほかには誰も来ない、というのも説明済みだ。
「この風呂に家族や友人と一緒に入ることがしばしばあります。」
「ここで服を脱いで中に入ります。」
「どうぞごゆっくり。」
と翻訳機で話して電源を切ろうとしたとき、カミュはもう一つ説明し忘れていたことがあるのを思い出した。
「今日はバラの風呂の日です。」
「バラの香りを楽しんでください。」
翻訳機が長い文章をこなせないことについてはまだ改良の余地があると考えながらナノと別れたカミュは離れの内風呂に入りに行った。あとはナノひとりである。
ナノ自身は入浴はシャワーで十分だという主義だが、こうまで親切にされては入らないわけにもいかないだろう。
バラ風呂と聞いてローズのバスエッセンスが入っているのだろうと軽く考えたナノが浴室へのドアを開けてみたものは……
「うわっ!なにこれ??」
思ったより広い浴槽には色とりどりのたくさんのバラの花が浮かんでいてナノは我が目を疑った。赤、白、ピンク、黄色、色彩の渦が浴槽を彩っている。

   どうして浴槽にバラがなきゃいけない?
   そんなこと、ヤルノはなにも言ってなかったのに!
   日本人はみんなこんな風呂に入ってるのか?

首をかしげながら教えられた通りに身体を洗い、ボディシャンプーがバラとは無関係の普通の品であることに安堵する。翻訳機もバラ風呂もインパクトが強すぎて驚いてばかりだ。

   それに、ミロのテレポートってなんだ?
   あのときバランスを崩して左に突っ込んでいって、
   気が付いたら雪に半分埋まってたような気がしたけどテレポートって?

興奮したヤルノから状況を説明されたが、あまりにも実感がなくていまいちわからない。なんにせよミロに助けられたのは確かなようだ。
「ほら、ナノ!ミロにちゃんとお礼を言わなきゃ!下手したら死んでたし、そうでなくても大怪我をして今シーズンの半分は台無しになるとこだったんだから!ここのコースには防護壁なんてないんだから、ヘルメットなしで岩にクラッシュなんて洒落にならないぜ!」
そう言われてもどうもよくわからない。テレポートって、いったいなんだ?
首をかしげながら浴槽に入るとたくさんのバラがゆらゆらと漂ってきてナノの周りを取り囲む。

   まったく、なんだってバラなんだ?
   日本人って何を考えてるわけ?
   シャンパンなら何度も浴びたことあるけど、バラなんて浴びたことないぜ

それでもなんとなく手にとって眺めたあげく両手を広げて手の届く限りのバラを集めてみた。葉のついていない花だけのバラはさすがにきれいで思わず抱えて持ち上げてみる。

   ふ〜ん、きれいだな……

それからハッとしてバラを落として首をぶんぶんと振る。まるで自分がバンクーバーオリンピックの男子フィギュア、ジョニー・ウィアーになったような気がしたのである。あのフリープログラムの演技の後に彼がキス&クライで嬉しそうに抱えていたバラの花束を思い出したのだ。だからヤルノと一緒に入るなんてまっぴらである。こんなところを見られたら、どれだけからかわれるか知れたものではない。
「きれいなのは認める。でもなぜバラなんだ?」
首をかしげるナノが、日本にはりんご湯とかゆず湯とか菖蒲湯があり、さらにはワイン風呂、豆乳風呂まであることを知ったらさぞかしあきれることだろう。


                                    



        
きわめて珍しい、ミロ様もカミュ様も出てこないシーンの描写。
        たぶんこれ一つきりです、サイト中探してもこれだけという貴重品。
        ナノ、さすがです、PP取ったも同然ね!