その9   「 ワイン 」

離れに戻ってきたヤルノとナノの感想は掛け離れていた。
ヤルノは日本の風呂は素晴らしいと絶賛し、ナノは意味がわからないと言ったのだ。
「意味って?風呂の意味なんて決まってる。身体を清潔にして気分よくリラックスする。ほかになにがあるんだ?」
ヤルノの質問にナノは首を振る。
「日本じゃそうじゃないんだよ。バラだ。」
「バラ?」
「行ってみればヤルノもわかるよ。ああいう温泉もあるんだって知ったほうがいい。」

   ここで説明するんじゃ、面白くない!
   ヤルノも自分の目で見るべきだ!

「…って、ナノが言ってるけど、家族風呂って今夜の予約、まだ取れるかな?」
「聞いてみましょう。」
カミュがフロントに電話をすると9時からの予約が取れた。その間にナノが音声をオフにして翻訳機を操作する。相手をするのはミロだ。
「あの風呂は毎日バラですか?」
「いいえ、一週間に一回です。」
「とても驚きました!」
「私も最初は驚きました。ほかに、りんご風呂やオレンジ風呂もあります。」
「えっ?!」
ミロは 『 ゆず 』 と入力したが、オレンジと変換されるのはいたしかたない。そのあとナノは試行錯誤しながら、家族風呂の詳しい説明はまだヤルノにはしないでほしいと頼み、ミロとの合意が取れた。
「…だそうだ。驚かせたいんじゃないかな。」
「わかった。」

何度か日本にきたことのあるらしい二人は浴衣の着方をわかっており、器用に帯を結ぶと半纏を羽織って四人揃って食事処に行った。
ひそかに案じていた料理のほうも板前が相当工夫したとみえて、ミロとカミュのものと比べてもなんの遜色もない。
「うわっ!このキュウリ、すごくない?!」
サラダに使われているキュウリは蛇腹切りで、その繊細なカットがナノを唸らせる。
「この人参は鳥の形だし、ハムは、ええと、なんだかクルッてひねってあるし!」
手綱コンニャクの応用だ。
「ずいぶん頑張ってくれたみたいだな。」
「日本の食材と味付けは苦手でも器と盛り付けは大丈夫ゆえ、職人の心意気をみせたのだろう。」
吟味した器に美しく盛り付けられたイタリアンとスパニッシュ料理の数々が二人を喜ばせグラスにワインが注がれる。
「ヤルノはワインを作ってるんだよ、葡萄園を持ってて販売してる。ほら、ヤルノ、ちゃんと通訳して!」
「ええと、祖父の代に手放した葡萄園を僕が買い戻してワイン作りを始めたんだ。」
「ほう!そうなのですか!ミロの実家もギリシャで葡萄園をやっていてワインを作っています。奇遇ですね!」
「えっ!そうなんだ!今度送るからぜひ飲んでほしいな。」
これがミロに伝えられて連帯感はさらに深まった。
「ギリシャワインか!いいなぁ!」
「イタリアワインのオーナーとはね!」
あとで住所を教え合う約束が交わされた。
「でも僕らはもうすぐ仕事が始まるから、あまりうちにいられないんだ。1週間したらバーレーンに行くんだよ。ずっと家を空けることも多いから、帰れるときがわかったら連絡するから、そのときに着くように送ってもらえるかな。」
「バーレーンとは遠いですね。こちらはこの宿ですからいつでもOKです。。そちらは?」
「僕はサン・モリッツ。なかなか帰れないけど、うちに送ってもらえればナノにも届けるよ。」
「ああ、サン・モリッツにお住まいでしたか!それは羨ましい!」
「あそこならスキーが楽しめるからね。最高だよ!」
それからスキーの話で盛り上がり、ミロが、自転車に乗ったことがないが車の免許よりは自転車のほうを先にしたほうがいいだろうかと相談を持ちかけた。
「君たちの運動神経なら自転車なんて30分でクリアできるよ。車は面白い。ぜひ乗るべきだ。でもスピードの出しすぎには気をつけなきゃいけない。僕らの友達に、調子に乗って一般道で160キロ出しちゃって捕まったとか、高速で230キロ出して捕まったとか、けっこういるからね。罰金とか免停とか、免許を取り上げられたのだってぞろぞろいるし。」
「それはよくないですね。」
「免許がなくても仕事は出来るんだけど、世間に示しがつかないし、子供たちにだっていい影響を与えない。早いほうがいいのは仕事のときだけだよ。」
「同感です。仕事は迅速に処理するべきですし。」
迅速も何も、黄金の仕事は光速で決まる。あれを仕事と言っていいかどうかは疑問だが。

食事が済んでしばらくしてからヤルノがミロを誘って家族風呂に行った。ミロはもう一度入る気はなかったのだが、バラ風呂を見たヤルノがどんな反応を示すのか見たくなったのだ。
機嫌よく服を脱いだヤルノがガラスの引き戸を開けた。
「 incredibile!」
信じられない。この言葉を何度聞いたことだろう。

   テレポートに比べればバラ風呂のほうがはるかにわかりやすいだろうな
   きれいだし香りがいいし、要するにいい気分になるんだよ

ミロの脳裏にバラ風呂につかるカミュの姿が浮かんだがあわててそれを打ち消した。今はヤルノと楽しく温泉に浸かる。それだけを考えればいい。
すでに露天風呂に入っているので、何杯か湯をかぶってからバラの間に身体を沈める。あきれたように笑ったヤルノがピンクのバラを手に取ると頭に乗せておどけて見せた。ヤルノはけっこう胸毛が濃くて、そっちのほうにはとんと縁のないミロにはちょっと珍しい。温泉でさんざん見慣れた日本人にはほとんど見かけないし、ましてやカミュには……

   有り得んな! とんでもない話だ!
   もし俺の胸毛が濃かったら、やっぱり嫌かな?
   う〜ん、微妙だな、さすがにどう思うのかわからない
   こんど聞いてみるかな?

なんとなく手元にバラを集めているミロがそんなことを考えているとは誰も思うまい。金髪とバラの取り合わせがさすがにきれいでヤルノは目をみはる。ギリシャとバラという組み合わせも面白い。
バラの香りの中でそれぞれに思いをめぐらせるひとときだった。