その12   「 テレビ 」

「それじゃ、これで。いろいろとありがとう。おかげで雪の露天風呂を味わえたよ。来年はぜひサン・モリッツへきてくれ、歓迎するよ。ワインも送るから。フルボディの赤がちょっと自慢でね。」
「こちらこそ。スキーをご一緒できて楽しかったです。」
「この次はリンゴ風呂のときにぜひどうぞ。それからこれを。最新型の翻訳機です。」
「わぁ!もらっていいの?嬉しいな!ほしかったんだ!秋葉原に寄って探そうと思ってた。」
ヤルノが子供のように目を輝かせた。よほど気に入っていたらしく、暇さえあればナノと二人で操作して面白がっていたのは宿の全員が知っている。
「秋葉原をご存知ですか?」
「うん、あそこは面白いね。6、7年前にもナノと二人で歩いたことがあるんだ。10月にも日本に来る予定があるからその時には行こうと思う。」
「それでしたら,ぜひまたお寄りください。スキーには早すぎますが紅葉が見事です。」
「それに温泉もあるし。紅葉の温泉も最高!」
ミロがヤルノの背中を流す真似をして笑いが起こる。
「まだ聖域に帰ったりしない?日本にいてくれる?」
「今の情勢なら大丈夫です。」
ナノがなにか言い、それをヤルノがフランス語に直した。
「ミロのおかげで今シーズンも戦えるよ、お互い命を大事にしよう。バラの風呂もなかなか面白かった…とナノが言ってるそうだ。」
「裸同盟に入らない? って言ってくれ。」
くすくす笑いながらヤルノが通訳し、ナノがぶんぶんと首を振る。
「妥協はできないそうだ。スペインフランス同盟は今後も継続される。」
「残念!」
固い握手が交わされる。
このあとバーレーンに仕事にいくという二人が宿の車に乗り込んだ。居並ぶスタッフが一斉に頭を下げる。

   ナノが言ってた 『 戦う 』 ってなにかな?
   男は玄関から出ると七人の敵がいるっていうから、それのスペイン風の表現だな、きっと

二人を乗せた車が出て行った。

その一週間後のことである。ホールで美穂が嬉しそうに話しかけてきた。
「ご覧になりました?アロンソ様が4位につけてますわね、明日が楽しみで…」
「え?」
そのとたんフロントで電話が鳴ったので、失礼します、といった美穂が急ぎ足で戻って行った。
アロンソとはナノのことだ。フェルナンド・アロンソの愛称がナノで、最初にヤルノからそう紹介されたのでナノとしか呼んでいなかったが、フルネームは知っている。といっても美穂から聞いて思い出したくらいで、ほとんど意識していなかったのだから気楽なものだ。
「美穂が言ってた4位って、何のことかわかるか?」
「いや、全然。」
それきりその話は出ずに翌朝になった。
食事処に出かけてその帰りにホールを通りかかると珍しく朝から娯楽室のテレビが付いている。ひょいっと覗くと美穂とほかの女性スタッフが何人かいて興奮してなにかしゃべっている最中だ。 まだ忙しい時間帯なのに珍しいなと思ったとたん、
「ああ、ミロ様、カミュ様、ちょうどいいところに!アロンソ様がバーレーン戦で優勝なさいましたのよ!早くおいでください!」
「えっ?なに?」
なんのことやらわからないままテレビを見ると、すごいスピードで走っている何台もの車が映り、カーレースらしいなと思ったとたん、切り替わった画面に赤いユニフォームを着て大きなトロフィーを持って笑っている男が映し出された。
「…あれ? これってナノ? どうして?」
「アロンソ様が優勝ですよ!昨日の予選では4位だったのに優勝なさったんですよ!ああ、素敵だわ!ここにお泊りになった方が優勝なんて!どうしましょう〜!」
「なぜナノがテレビに? さっぱりわけがわからないが。」
二人の反応に全員が不審の目を向けた。空気が読めない以前の問題だ。
「あの……お二人ともアロンソ様が誰だかご存じないんですか?」
「まさか、そんなことありませんわよねっ?!」
スタッフの気迫に押された二人が当惑する。
「そう言われても…」
「誰って、ナノはナノだし。優勝って?」
一瞬の沈黙のあと、
「んまぁぁぁ〜〜!」
美穂が大きな声を出し、それから真っ赤になって頭を下げた。
「私ったらとんだ大声を出してしまって……でもあまり驚いたものですから。」
そこへ騒ぎを聞きつけた宿の主人がやってきた。
「なにか不都合でも?」
「いえ、あの……ミロ様もカミュ様も、アロンソ様とトゥルーリ様が誰だかご存じなかったみたいで、ちょと驚いてしまいまして。ほんとにお騒がせしまして申し訳ございません。」
ヤルノ・トゥルーリというのがヤルノのフルネームである。
「本当に?!」
宿の主人があっけにとられた顔をして、まじまじと二人を見つめた。
「ええとですね、あのお二人はF1ドライバーでいらして世界的に有名な方ですが、ご存じありませんでしたか?」
「F1?」
「F1…というと?」
全員がため息をついた。