さて、夕方から出勤したギガントが引き継ぎのため事務室に顔を出すと昼勤のバレンタインが待っていた。
「ミューが具合が悪いので私が替わりに来ました。」
「そのことは聞いている。では引き継ぎを。午前10時から定例の文書伝達で聖域からの使者二名が来ている。今回は黄金聖闘士のスコーピオンのミロとアクエリアスのカミュで、まだ滞在中だ。」

   ああ、やっぱりカミュだ!
   でも俺は絶対に会わない! ここからすぐに当直室に行って日誌にかじりつくことにする!
   そうしてるうちに帰るに決まってる!

「彼らが冥界の植物を調べたいというので説明は私が受け持った。夕刻には調査を終えて帰るはずだったが、パンドラ様から夕食のお誘いがあったので17時からラダマンティス様と一緒に出かけている。夕食後にそのまま帰還の予定。ラダマンティス様のお戻りは19時半ころだと思われる。御到着の連絡があり次第、私が責任もってお迎えするので夜勤者は出なくともよい。日勤者の欠勤及び遅刻は無し。明日は9時から、ミーノス様とアイアコス様がおいでになって第一会議室で来月の強化訓練の実施要項の最終確認をなさることになっているから準備を頼む。13時から防災避難訓練がある。各自の持ち場は事前配布した計画書を参照のこと。来月の勤務表は明後日に配布される。夜間巡視は規定通り20時から6時まで1時間ごとに行うこと。」
こまごまとした事務連絡が続き、ギガントが項目ごとにメモを取っていると、バレンタインの携帯が鳴った。パチンとひらいて画面を一瞥したバレンタインが、
「予定変更がある。聖域からの使者二名の滞在予定が伸びて宿泊することになった。」
と言ったのでギガントが驚いたのは尋常ではない。
「えぇっ!!どうしてですっ?パンドラ様のところから聖域に直帰じゃなかったんですかっ!」
思わず声が上ずってしまう。

   会いたくないっ! 絶対に会いたくないっ!
   いきなり予定が変わるなんてフェイントすぎる!
   夜勤 変わらなきゃよかった! 泊まるって、いったいどこに泊まるんだっ!?
   も、もしも、当直室の隣の空き部屋だったら??

「そのはずだったが、パンドラ様がカイーナの月下美人が今夜あたり咲くことを思い出されてぜひ見るようにとお誘いなされたのだそうだ。」
「月下美人って……それってあの、敷地の東側にあるひょろ長い木で、五十年に一度、たった一晩だけ白い花が咲くって伝説のやつですか!な、なんで今夜咲かなきゃいけないんですっ??」
「なぜかは知らん。花には花の都合があるのだろう。部屋は私が手配する。就寝は開花のあとだろうから時間は十分にあるな。」
「それまで起きているって、ええと……どこで何を?」
ギガント、パニックである。

   巡視中にミロにばったり会って、俺の身長と冥衣からあのときに襲った冥闘士だって気付かれたらどうなる?
   俺たちが聖闘士の小宇宙を察知できるなんて常識だから、きっと夜のことがばれたかもって思うに違いない!
   きっと奴は烈火のごとく怒る!
   ……もしかして、その場で血の海か!?
   い、いや……いくらなんだって冥界でそんな真似をしたら大騒動になることくらい奴だってわかるだろう
   するとニヤリと笑って俺を脅迫にかかるのかもしれん!
   冥界の警備の人員配置とか、詳細な地形図とか、組織図とか要求されたらどうするっ!?
   そんな情報を漏らしたらラダマンティス様を裏切ることになる!
   とてもそんなことはできん!
   要求を拒絶したら何をされるんだ??

考え出したら止まらない。真っ青になっていると、
「ギガント、どうした?大丈夫か?」
バレンタインが不審そうに見ているのに気が付いた。
「あ……いえ、大丈夫です。」
一瞬はバレンタインにすべてを打ち明けて他の者に夜勤を替わってもらうことも脳裏に浮かんだが、あの任務はラダマンティスから直接命令されたもので、ほかの者には漏らさないということが鉄則である。そのラダマンティスはミロたちと一緒にパンドラの招待を受けて食事をしている最中なので相談することなどできはしない。
不安が最高潮に達したギガントは残りの引き継ぎをうわの空で聞きながら蹌踉として当直室に引き上げた。

当直日誌を書きながら耳を澄ませているとラダマンティスたちが戻ってきた気配がした。廊下の先で迎えに出たバレンタインとなにか話している声がする。ミューと夜勤を交代したことを報告しに行きたいのだが、ミロとカミュがそばにいるかもしれないことを思うと躊躇する。できることならだれかの冥衣を借りたくなったギガントがまっさきに思いついたのはパピヨンのミューの蝶の羽のついたあの派手派手しい冥衣だ。

   あいつは蛹の中で寝ている最中だから、俺が冥衣を借りても気付かんだろう!
   まったく趣味ではないが、あの冥衣ならミロの目をごまかせるかも!
   あ……だめだ……
   俺が197センチ、108キロなのに対してあいつは俺より20センチくらい低いし、体重も40キロは軽いだろう

そもそも、万が一 体格が等しかったとしても、そんなことをする理由を尋ねられたら答えようがないし、夜勤者が持ち場を抜け出せるわけもない。しかたなく息をひそめているとやがて廊下が静かになった。どうやら部屋に入ったらしい。ラダマンティスもバレンタインに見送られて退勤したようだった。
定例の巡視の時刻になったので左右を窺いながら部屋を出る。見回りのコースは屋内をくまなく回ってから外へ出て建物の外周を回るという簡単なものだ。すでに聖戦も終息しているので警戒レベルは高くない。
事務室を覗くと居残っていたバレンタインが記録をつけていた。
「見回りご苦労。聖闘士には東ブロックの三号室を用意しておいた。月下美人の観察に出るには東の通用口を使用する。観察終了後はお前の携帯に電話が来ることになっているから、それを確認してから施錠してくれ。」
「はっ!そのほかのことについては夜勤者は何もしなくてよろしいですね?」
念のため、そこのところは確認しておかなければならない。万が一茶菓子の接待などと言われたら万事休すだ。
「その必要はない。なにかあったら夜間用の携帯に連絡してくれ、とだけ言ってある。朝食の用意もお前はかかわらなくていいので、夜勤業務に専念してくれればいい。」
「は…携帯にですか。了解です。」
施錠の連絡なら事務的に済ませられるが、部屋の空調の不具合とか、体調が悪くなったとかの難題が持ち上がったら顔を会わせないわけにはいかないだろう。ギガントとしては絶対に避けたい事態である。いまさらながら腰に下げた携帯が恨めしい。
以前はそんな機器はなかった冥界にも聖戦後はその手の地上の利器が増えてきて、導入直後はみんなで珍しがって大喜びしたものだが、今となっては仇にしか思えない。
ため息をつきながら事務室を出て警戒しながら東ブロックに足を踏み入れると、3号室の扉は閉まったままでこれといってなんの気配も感じられない。地上とは異質の冥界では基本的小宇宙すら仰えているらしかった。

   そりゃそうだ
   いくら好き同士だからって、かつての敵地の冥界まで来ていちゃつくはずはないからな
   借りてきた猫みたいにおとなしいに決まってる

根っからの武闘派のギガントには他人の事情を詮索する趣味はない。ついうっかり思い出してしまったあの夜のことを頭から振り払いながら一時間ごとの巡視を平穏に済ませたギガントが0時の巡視に出ると、例の通用口で人の気配がした。ぎょっとして曲がり角からそっと覗くと、確かにミロとカミュと思しき人影が外に出ていくところだ。

   あっぶねぇ〜! もう少しで鉢合わせするところだった!

どきどきする胸を押さえながら外の見える窓際まで行って様子を窺うと、少し離れたところに自生している月下美人のそばで屈んで花の様子を見ているらしい。夜と昼の明るさがたいして変わらない冥界では、ことさらに明かりをつけなくても観察は容易だ。

   なんだって、あんなものに夢中になるんだ? 
   五十年に一度だろうと百年に一度だろうと、花は単なる花だろうが  
   そんなものより 旨い飯や酒のほうがよっぽどありがたいに決まってる
   地上で贅沢な暮らしをしてると妙なものに興味を持つってわけか?

温泉旅館で食べた山海の珍味や日本酒の旨さを思い出しながら、その享楽を毎日のように味わっているに違いない聖闘士の境遇に嫉妬するのも無理からぬ仕儀と云えよう。しばらく見ていたが二人がいっこうに動こうとしないのでギガントはその場所を大きく避けて巡視を済ませるとまた当直室に腰を据えた。
夜中の一時少し前に携帯が鳴った。ドキッとして声を殺して電話に出るとカミュからだ。
「もしもし、夜勤の方ですか?お世話になっている聖闘士のカミュです。戸外の花の観察が終わりましたので出入口の施錠をお願いしたいのですが。こんな時刻までご面倒をおかけして申し訳ありません。」
まるで観光地の宿に泊まっているかのような丁寧な物言いは、とてもこの間まで究極の敵として命を懸けて闘った冥闘士に向けてのものとは思えない。
「いいえ、どういたしまして。……おやすみなさい。」
意表を突かれたギガントが思ってもいなかった就寝の挨拶までしてしまったのには自分でも呆れてしまう。ともかくこれで顔を合わせることなく朝を迎えられるのは間違いない。ずっと心にのしかかっていた懸案が払拭されて気が楽になったギガントは二時の巡視で外に出た時にふと思い立って月下美人の花を見てみる気になった。ミロたちの泊まっている部屋の明かりは消えていてカーテンも引かれているのに安心して遠目にもよく目立つ白い花に近づいてゆくと甘い香りが漂ってくる。

   ふうん、けっこういい匂いがするんだな
   五十年に一度しか咲かないんじゃ、嗅ぐチャンスも滅多にないってことだ

冥界には珍しい甘い花の香りを二、三回嗅いで納得したギガントは平穏な巡視を終えると部屋に戻った。