朋あり遠方より来たる また楽しからずや

                     孔子 「 論語 」 学而 第一より    学友が遠方より訪れて学問の議論をする
                                             それもまた楽しいではないか



「カミュ先生!こっちも!」
「いま行くから。」
ピョートルに呼ばれて返事をしたカミュ先生は今日も大忙しだ。 小さな分教場のたった一つしかない教室で数学を教えている最中に小さい子から呼ばれたカミュ先生はちょっと困りながら俺に因数分解を教えてくれる。 屈み込んで俺のノートに正しい計算式を書いているカミュ先生の長い髪が揺れてなぜだかどきどきしてしまう。
「ここが違っていたんだね、わかったかな?イザーク。」
「はい、先生!」
頷いた先生はピョートルのところへ行き、今度は旅人算をわかりやすく教え始めた。
「先生〜、ここのところがよくわかりません!」
ピョートルに旅人算の問題を噛んで含めるように教えている先生にまたほかの子供から助けを求める声がかかり、先生はあちらこちらと教えるのに大忙しだ。

「ほんとに教えかたが上手だなぁ!」
「まったくいい人が来てくれたもんだよ!」
村の大人たちが何人も教室を覗き込んでは褒めてゆく。
「もう何日になるかね?」
「村に来たのが一ヶ月くらい前で、教えてくれるようになってから10日くらい経ってるんじゃないか。」
「パブロワ先生が腰を痛めてやめちまって、これからどうしようかと思ってたところだったからなぁ。まったくありがたい!」
最初は不審顔だった大人たちもカミュ先生の教えっぷりに満足してる。

先生がこの村に現れたのは一ヶ月ほど前だ。よそ者などめったに来ない小さな村ではその姿は人目をひいた。
「知らない人があそこにいるよ。」
「なにしに来たのかな?」
俺が教室から出ようとすると小さいヤコフがピョートルと話し始めた。
「見たことのない人だよ。」
「誰かの親戚かな?」
ふ〜んと思って窓から覗いてみると校門のところにその人がいて、こっちのほうを見ていた。背が高くて若い男の人だ。 都会っぽい感じで、見るからにこの辺の人間ではなさそうだった。
「誰だろう?先生に用事かな?」
とくに気にもしないでその人の横を通り抜けてうちに帰った俺はすぐにそのことを忘れた。

翌朝のことだ。
学校に行くとまだその人はいた。今度は教室が一つ切りの小さい校舎の側にある古いベンチに腰掛けてのんびりと空を見ている。のんびりでなければ、ぼんやりだったかもしれないが、そのときにはのんびりとしているように見えたのだ。
「あの人、まだいるよ。」
「なんの用事かな?」
さすがに気になってちらちら見ながら教室に入った。
「パブロワ先生!外にいる人、誰なんですか?昨日もいたけど。」
パブロワ先生は40過ぎたくらいの女の人で、6才から15才までの俺たち20人に勉強を教えてくれている。
「え?どこに?」
驚いたことに先生は昨日も今日もその人を見ていなかった。先生が通るときにはいなかったのだろう。
「昨日、俺が帰るときには校門のところにいたし、今はベンチにいますよ。」
「あら。なにかしら?」
立ち上がった先生と一緒に外に行くとその人がこっちを見た。 そのときになって初めて俺はその人をよく見たのだ。

   こんなきれいな人って、いるんだ!

そう思った。 まっすぐな髪は長くてつやつやしていて村の女の子の誰よりきれいに違いない。 色が白くて目はとても綺麗な青で、 まるで映画に出てくるスターみたいでほんとの人間とは思えないくらいだ。
「おはようございます。」
「おはようございます。」
先生が挨拶するときれいな声で返事が返ってくる。 この人は、声まできれいなのだ。
「昨日もいらしてたそうですが、なんのご用でしょうか?」
「……え?」
頼りなさそうな返事と表情に先生がもっと質問をし、そうしてついにわかったことは、その人が自分のことがなにもわからなくなっているということだった。

名前だけはわかった。
先生が聞いたらすぐにちょっと変わった発音で
「カミュです。」
と言ったのだ。
「でも、ほかはなにもわからないんですよ、どうしましょう?」
「身元不明人ということで駐在に届けておいたが、どうしたもんかなあ?」
「昨日からここにいたっていうが、ゆうべはいったいぜんたいどこで寝たのかね?」
大人たちが話し合った結果、その人の身元がわかるまでうちで預かることになったということを知って俺はドキドキしてしまった。 村に宿屋なんかないし、父さんは村の世話役だから不思議ではないのだが、知らない客を泊めるのは初めてなのだ。
この話がまとまる間、その人は静かに座っていて困ったような顔をしてこっちを見てた。 悪い人には見えない。 どこから来たのか、ほんとは誰なのか、なにもわからないけど、その人はとてもきちんとした人のようで、だからこそ大人たちも気の毒がって、身元がわかるまで村で世話をすることに決めたのだろうと思う。

その人は、ではなくカミュと呼ぼう。
父さんはフランス風の名前だと言うし見掛けもロシア人には見えないけれど、カミュが話すのはきれいなロシア語だ。 カミュには、モスクワ大学に行っている兄の部屋を使ってもらうことになった。 うちにはほかに余っている部屋はないし、男同士なんだから兄もそんなに気にするはずはなかった。
「服はこの中にあるのをどれでも着ていいですよ、サイズもピッタリだと思うわ。」
「はい、ありがとうございます。」
うちに連れてこられたときは所在無げだったカミュが目を輝かせたのは、兄の部屋の本棚を見たときだ。
兄のサガノフは村一番の勉強家で成績もよく、村の学校の卒業生の中ではただひとり大学まで進んだ秀才だ。 部屋の本棚には兄が苦労して集めた本がたくさん並んでいて、俺にはちっともわからない難しい題名がついている。
「ああ、この本がある!この本も!」
嬉しそうな声を上げたカミュがそのうちの一冊を手に取ろうとして、
「この本を読んでもいいですか?」
と聞いてきた。 俺のほうがずっと年下なのにとても丁寧な言葉遣いなのにちょっと驚きながら、
「どうぞ」
と言うと、やはり丁寧なありがとうが返ってきて、さっそく手近の椅子に座ったカミュは熱心に読書を始めた。
あとで題名を見たら 「 現代社会の危機意識 」 とかいう難しそうな本だった。 なにが面白いのかわからない。