カミュの生活は規則正しくて、家族と一緒に朝食を摂ると、俺が学校に行ったあとは読書に耽っているらしい。
最初のころは父や母の畑仕事の手伝いをしようと申し出たらしいが、傷一つないなめらかな手や女よりもきれいそうな桜貝みたいな爪を見れば鍬も鋤も持ったことがない手なのは誰の目にも明らかで、かといって牛や豚の世話にも慣れていないのがすぐにわかり、苦笑した父が兄の本を読破していいからと言ったのだ。 恐縮がったカミュが井戸水を汲み上げる仕事だけでもすると言い張り、その分だけ母の仕事は楽になっている。

そんなカミュの日常が劇的に変わったのは、うちに来て一週間ほどしたころだ。
郡の役所から届いた郵便物というのが至急に学校に届けなくてはならないという代物で、独りでうちにいて手を離せない仕事をしていた母は考えたあげくそれをカミュに頼むことにした。 うちから学校までは迷うはずもない一本道だし、ときどき散歩に出掛けるカミュはそれなりに村のみんなとも顔見知りになって挨拶くらいはしていたから困るはずもない。
「すまないわねぇ、お願いしていいかしら?道はわかる?」
「ええ、大丈夫です。」
「パブロワ先生にうちからだと言ってこの封筒を渡せばわかるから。」
「はい。」
たぶんそんなやり取りがあってカミュが学校にやってきたときはちょうど休み時間だった。 校門を入って来たカミュを目ざとく見つけた小さい子たちが、
「こないだの人が来たよ!」
とパブロワ先生に教えに来てわいわいと騒いでいる中をカミュが教室にやってきた。
「こんにちは。 お忙しいところを恐縮です。 この封筒を言付かってきました。」
先生が封筒を開けて読み終わったころ、外から叫び声が聞こえてきてピョートルが教室に飛び込んできた。
「先生っ、ヤコフが木から落ちたっ! 頭からすごい血が出てる!」
「えっ!」
みんなで外に飛び出してヤコフのそばに駆け寄ると、わんわん泣いている顔が血だらけでぎょっとした。 どうすればいいかわからなくて立ちすくんでいると先生がヤコフを抱きかかえ、傍らにひざまずいたカミュがハンカチでそっと血を押さえて行くと額の左側が切れているのがわかった。
「縫合が必要でしょう。 医者はいますか?」
「車で一時間はかかりますわ。 私が連れて行くので、すみませんがその間、子供たちをお願いしていいですか?」
「はい、大丈夫です。」
大人の間であっという間に話がまとまり、頭をタオルでぐるぐる巻きにされたヤコフは真っ青な顔でパブロワ先生の車で隣村に運ばれていった。
すごい血を見て興奮した俺たちを教室に連れて行ったカミュはしばらくは好き勝手にしゃべらせておいて、落着いたところを見計らってみんなに自己紹介をさせ始めた。 みんなは村にやってきたカミュのことを一応知っているが、カミュは俺以外の子供と話すのは初めてだ。
ピョートル、イワン、アンナ、イリーナ、エフゲニ、ニコライ、カザリン、セルゲイ、次々と名前を言って、カミュはそのたびにうなずきながらやさしい声で挨拶をした。
「私はイザークのうちにいるけれど、今日はパブロワ先生から頼まれてみんなの先生になるからどうぞよろしく!」
「は〜い!」
ヤコフの怪我が緊急事態だとみんなわかっているので、カミュが臨時の先生になることも自然に納得できたみたいだ。 とくに女の子たちはカミュがあんまりきれいなので、もじもじしてお互いを突っつき合って恥ずかしがっているらしい。
壁の時間割を見たカミュが理科の教科書を出すように言い、みんなが席に着く。
どんな教え方なのかと心配したが、困ったことはなにもなかった。 いちばん年上の俺に授業の進め方をざっと聞いたカミュは年の違う子供たちをうまく指導してみんなをきちんと勉強させることができたのだ。
女の子たちはきれいなカミュに見とれていていつものおしゃべりなんか一つもしないし、男の子たちはこの先生の前ではきちんとしないといけないと感じたらしく、いつもの10倍くらい行儀がよかった。 ただでさえ都会の匂いのするカミュの並外れたきれいさが教室の空気を引き締めたような気もする。
弁当の時間にはカミュの前にピョートルが置いた弁当箱の蓋にみんなが争って食べ物を持ち寄って、あっという間に一人分の昼食ができあがり、誰がカミュの隣りに座って食べるかで小さな争いがあった。
カミュはにこにこしながらそんなみんなを見ていて、なんだかもともと先生だったみたいに溶け込んでるのが不思議なのだ。
そんなふうにして午後の授業が一つ終わったところでパブロワ先生が帰ってきた。
「ヤコフは大丈夫?」
「元気なの?」
みんなが口々に尋ねると、
「大丈夫よ。 治療してもらってヤコフの家に送ってきたところだから安心してね。 みんなのほうはどうだったの?」
小さい子達がいっせいに、カミュ先生ときちんとお勉強できた! と言い、俺もざっと様子を説明するとパブロワ先生はずいぶん安心したようだった。
先生はカミュにお礼を言って、
「当然のことをしたまでです。 お役に立てて何よりでした。 ではこれで失礼します。」
そう言ったカミュがみんなにさよならを言って教室を出てゆくのがなんだか残念だった。

その三日後のことだ。 学校から帰ると父が、
「イザーク、明日からカミュが学校の先生になってお前たちを教えることになった。 いつまでかはわからんが、お前も協力して授業がうまく進むようにしてくれんか。」
そう言ったのには驚いた。
父の話によると、パブロワ先生のお母さんの具合が悪くなり、看病のためにしばらくお休みしなければならなくなったのだという。 すぐに次の先生が来てくれるはずもなく、大人たちが話し合った結果、カミュの名前が挙がったのだそうだ。
「こないだヤコフが怪我をしたとき、たまたま学校に行っていたカミュがお前たちをうまく指導できたというじゃないか。 カミュも承諾してくれたので、明日からカミュがお前たちの先生ということになる。 どうだ、うまくいきそうか?」
「きっと大丈夫です! みんなカミュのことが大好きになったし、それに教え方がうまいんですよ。 初めてとは思えなかったです。」
どきどきする話だ。 同じうちに住んでいるカミュが先生なんて、なんだか興奮してしまう。 みんなカミュに憧れていて、俺が一緒に住んでいることもさんざん羨ましがられているのだから。
さっそくカミュの部屋に行くと、早くも算数の練習問題を作っているところでほんとに熱心なのだ。
「思いがけないことだけれど、明日から先生役をおおせつかったのでどうぞよろしく。」
「こちらこそ大歓迎ですよ、みんなきっと喜びます!」
こんなわけでカミュは俺達の先生になった。

                               
※ イザークはもちろんアイザックです。 念のため。