東海の小島の磯の白砂に  われ泣き濡れて蟹とたはむる

                                                 石川啄木     「一握の砂」 より


八月の或る日、デスマスクから電話がかかってきた。 用事があって東京に来ているから飲みに来ないかというのだ。
「東京に? 行ってくればよい。 私は飲まぬゆえ、すまぬがここに残っている。」
「じゃあ、ちょっと行ってくる。」

カミュが独りで一週間ほどシベリアに出掛けていたことはあるが、俺がカミュを残して別行動するのは初めてだ。 ちょっと特別な気分で東京に行き、銀座でデスマスクと落ち合った。 北海道と違って東京の夏は蒸し暑い。
「よう! 元気でやってるか?」
「ああ、俺もカミュも変わりない。 聖域も平穏だろうな。」
「シオンが目を光らせてるから、ばっちりだ。」
「東京にはなんで?」
「野暮用だよ、グラード財団のくだらん用事だ。 半日で終わったから、ちょっとジャパネスクに飲もうと思ってな。」
「ジャパネスクねぇ……確かに銀座はジャパネスクだ。 うっかり知らない酒場に入ると、サービスは極上だが恐ろしく高い。 天文学的だと聞いている。」
「そうなのか? どこかいいところを知らないか?」
「う〜ん、そう言われても俺も外では飲まないからな。 ましてや銀座は守備範囲外だし。」
そんなことを話しながら夕暮れ時の銀座四丁目の角に差し掛かってふと思い出したのは帝国ホテルのオールドインペリアルバーだ。
宿の娯楽室の書棚にたくさんある本のうち、『 日本の老舗 』 というのがカミュの大のお気に入りで、その中にバー・酒場の部が載っている。 カミュは外では一切飲まないのでそんなページは見ないのだが、俺はちょっと夢を見ながら写真に見入る。 カミュと外で飲むことは有り得ないが、もしもそうだったらいいのにな、と夢を見る。
その中に銀座から歩いてすぐの日比谷にある帝国ホテルのバーが紹介されていたのだ。 もう少し先に歩くと皇居のお堀端に出るという一等地にその帝国ホテルは建っている。 ここから5分とかからない。
「いいところがある。 ホテルの中のバーだが、いい雰囲気だ。」
「ふうん、案内しろよ。」
ほんとはカミュと行きたかったが、無理な相談だ。 食事のときにワインを飲むことはあっても、場所を変えて飲むなど有り得ない。
「なるほど、こいつは上品だ。」
ここは高名な建築家フランク・ロイド・ライトが設計した旧帝国ホテルの面影をいまに伝える東京では唯一の場所で、日本人に混じって外人の姿も多い。 カウンターに座ってカクテルを頼む。 カウンターの上方から小さなスボットライトがめいめいのグラスを照らし、光の効果が美しい。 しばらく喋っているとデスマスクがにやりと笑って俺をつついた。
「おい、たしかにここは素晴らしいとは思うんだが、もっと気楽なところはないか? カミュと飲むには向いてると思う。 それは確かだ。 だが俺はカミュじゃないし、もっとくだけたところがいいんだが。」
「わかったよ、実は俺もそう思ってた。」
笑いながらそこを出て、さて、と考えたすえ、ここからもたいして遠くない新橋の飲み屋を思い付いた。 いつもよく観ているテレビのニュースでサラリーマンにインタビューするときにはきまって新橋駅前の広場が背景になってるし、会社帰りに酒を飲んでいる彼等に取材するときもやはり新橋と決まっているらしく、しばしば画面に紹介されるサラリーマンたちがいかにも楽しそうに飲んでいる風景を羨ましいと思って見ていたのだ。 ほとんどの客が都心に勤めるサラリーマンという立地条件のせいか客層もいい。 しかし思い付いたのはいいのだが、どこの店というあてがあるわけでもない。
「ちょっと待ってくれ、聞いてみる。」
こんなときには宿の主人に聞くに限るのだ。 なんでもすぐに調べてくれる。 はたして、電話をかけるとすぐにパソコンで検索して手頃な店を教えてくれた。
「わかったぜ、今度は気楽な店だ。」
「期待してるぜ!」
そして今度はデスマスクも満足したし、俺も同様だ。 そこは焼き鳥を出す店で、テレビで見たとおりに仕事帰りのサラリーマンであふれてる。 外人の姿もちらほらあって、日本人に混じって楽しくやっている。 ビールや日本酒が酌み交わされて焼き鳥のいい匂いがなんともいえず食欲をそそる。
「ええと、どれがジャパネスクなんだ? せっかく日本に来たんだから、アテネでは飲めないものを飲みたいね、俺は。」
案内された席に落ち着いて眺めるメニューは日本語の横に英語もしくはローマ字が書いてあり、注文するのに支障はない。
「ええと、酒は焼酎がいいだろう。」
カミュと飲むことはないが、焼酎の存在は知っている。 テレビでしばしば見聞きするし、けっこう人気があるらしい。
適当なのを頼んで、焼鳥のほうは考えたあげく 「 おすすめ焼き鳥コース 」 にしておいた。こういう店は初めてだが、間違いない選択だろう。
「ふうん、なかなかいけるな!」
デスマスクは焼酎が気に入ったらしかった。 店の中もほどよくざわめいて、気取らなくていいからくつろげる。 いろいろなことをしゃべりながらどうしても思ってしまうのはカミュのことだ。

   もう7時か……夕食はとっくに終わってる
   離れに戻って入浴して今夜は独りで寝るんだな
   少しは淋しがってくれてるかな
   カミュが飲めるたちだったら、一緒に来てるかもしれないんだが………

「おい、ミロ」
「え?」
「カミュがいればいいのにって考えてるだろ?」
「えっ、俺はなにもそんなことは…」
「隠すなよ、さっきから何度溜め息をついたと思ってる? べつに隠すようなことじゃないだろう。 そら、もっと飲めよ。」
「ああ、そうだな、隠してなんかいない。」
焼酎をぐっとあおった。 カミュは飲めないから来なかっただけの話だ、ただちょっと残念だっただけで。
「あいつがもっと飲めればなあ! 訓練してもだめか?」
「無理だ。 ほんのわずかで赤くなるし、限度をこえるとあっという間に倒れる。 だいいち訓練しようにも、本人に酒を飲めるようになりたいという意欲がないんだからどうしようもない。」
「五年経っても変わらないんじゃダメだな、あきらめろ。」
「言われなくてもとっくにあきらめてる。 カミュは酒に向かない。」
なんだか悔しくなってまたぐいっと飲んだ。 まわりの賑やかさが気分をあおる。 焼鳥の思いがけない旨さも気に入った。
「まあ、いけ!今夜はとことん飲もう!」
「そうしよう! どうだ、焼鳥はいけるだろう?」
「最高だ! ジャパネスクに乾杯!」
枝豆をとってカミュ仕込みの解説をして、
「ふ〜ん、こいつが大豆なのか? えらくきれいな色だな、旨いじゃないか! 砂糖もオイルもなくてボイルしただけって、そいつはヘルシーだぜ! 日本人はいつもこんなものを食べてるのか?」
と感心させる。 焼酎を何杯も空けたころにはすっかりできあがっていい気持ちになっていた。
「で? カミュとはどうなんだ? うまくいってるのか? 聞かせろよ。」
「だめだ、そんなことは言えない。」

   ………あれ?この言い方は変か?
   変じゃないよな………言えないから言えないっていうのは当たり前だ

「水臭いな、俺とお前の仲だろう。 正直に言ったら、また蒼薔薇を世話してやらんものでもない。」
「えっ、蒼薔薇!」
あらぬ光景が頭の中に展開し、酔いで赤くなっている頬にさらに熱が加わった。
「あれはよかっただろう? ほら、もっと飲め! 今日はいい日だ。」
「ああ、ほんとにいい日だ!」
「で、蒼薔薇はカミュに似合っただろう? うんうん、そうに決まってる、カミュは色白だからな。 蒼と白っていうのは最高の組合せだ、そうは思わんか?」
「思うとも!」
それからデスマスクからいろいろ聞かれたような気がする。
「今夜は帰らなくてもいいんだろう? 帰るって言っても帰さんぞ! それとも今夜もカミュに会いたいか?」
「誰が!」
「いいのか? ほうっておいても?」
「むろん、かまわんさ。」
「じゃあ、付き合え! どうせ、お前のほうがリードをとってるんだろう。 教えろよ。」
「だめだ、そんなことは言えない。」
「そこまで言ったら言ったも同然だ。 もう一杯いけ。」
「う〜ん、そうかな?」
「そうに決まってるだろうが! のろけでもなんでも聴いてやる。 なんでも言ってみろ。 それとも悩みとかあるのか?」
「悩み……悩みって……」
心にいろいろなことが浮かんだが、うまくまとまらない。
「相談にのるぜ、なんでも言えよ。 ほんとにここの焼鳥は美味いな!」
「うん、まったくだ!」
カミュとこんなふうに飲むなんて有り得ない。 帝国ホテルのバーも新橋の焼き鳥屋もカミュには無縁の存在だ。 こんなふうに飲むのが珍しくて、カミュがいないのが悔しくて、俺はどんどん飲んだ。 カミュといるときはこういう飲み方はしない。 いつもは独りで飲んでいるも同然だし、そのあとの予定もあるのでここまでは酔えないのだった。
「ようし! 今度は日本酒だ、地酒の旨さを教えてやる!」
「なんでも付き合うぜ! どんどんいこう!」
新橋の夜が更けていった。


                                    



                  
蟹………蟹………なにか蟹に関係ある歌はないかしら?
                  さるかに合戦、だめ! あわて床屋、だめっ!
                  どこかになにかあったような気が………
                  「椰子の実」 ………違うけど、なにやらイメージ的には近い匂いが。
                  ………あっ! あった〜〜!


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