「おい、カミュ! 朗報があるっ!!」
俺が離れに戻ってきたとき、カミュはまだ碁盤に向かっていた。 左手に本を広げて持ちながら、真剣な顔をしてパチンと石を置く。
「なんだ、まだやっているのか?」
「うむ、聖域に戻ったら、老師のお相手をしようと思うのだ。 碁を打てる者がいない、とお嘆きのようなのでな。」
「俺はチェスなら得意だが、そいつは駄目だ、さっぱりわからん!」
「ああ、それも囲碁の用語だ。」
「え……? なにが?」
「その 『 駄目 』 というのは、白石と黒石の境にあって、どちらの地にもならぬところをいうのだ。
そこで、何の役にも立たないから 、『 つまらない 』 という意味の 『 駄 』
を頭につけて、その言葉が出来た。」
「ふうん……」
「日本語にはこのほかにも囲碁から出てきた言葉は数多い。 結局・手詰まり・先手を打つ・布石などは、みな、そうだ。」
「なんだか、よくわからんな……まあいい、そんなことより、いい知らせがあるぜ!」
「いい知らせとは?」
盤面に視線を戻したカミュは、少し考えて、また一つパチンと白石を打った。
すっと伸ばされた指がきれいで、俺はひそかに溜め息をつく。
先日、一週間ほど滞在していた老人が娯楽室で碁を打っていたのを見つけたカミュが、「
ほぅ!」 という顔をしてそばに寄っていったとき、俺はのんびりと珈琲を飲んでいるところだった。
日本の目新しいことにはなんにでも興味を持ち、納得するまでは追求をやめないカミュなのはとっくにわかっているので、今度も
「 また始まったな 」 と思っただけだ。
ちらっと見て、オセロみたいなものだろう、と検討をつけた俺は話がすぐに終わるだろうと気楽に考えていたのだが、それは大きな間違いだった。
俺にとっては運の悪いことに、その老人は英語が達者で、カミュ相手に「さあ、座りなさい♪」
と言ったらしく、カミュがまた嬉々として言うことをきくではないか!
やれやれ、どうして英語が出来るんだ?
せっかくの珈琲が冷めるだろうが……まあいい、たかがオセロだ、すぐに終わるだろう
………3時間かかった。 俺は珈琲を飲み終わり、散歩をし、退屈なので家族風呂にも入りにいった。
丹念に髪を洗い、背中も一人で洗った、おっとこれはいつものことだから文句は言えんが。 ゆっくり湯船につかって過ぎ越し方などに思いを巡らせて哲学や思索に励み、たった一人で丁寧に髪を乾かして、いつもは座らぬマッサージチェアにまで助けを借りた。
そして、娯楽室に戻ってみると、これはどうだ! 奥義の伝授にいっそう熱が入り、傍らのテーブルの上には碁を打ちながら食べられるようにと、サンドイッチが届けられているではないか!
俺が 「 え?」 と言ったのは聞こえたのだろう、振り向いたカミュが早口で 「
ミロも一緒がよかろうと思って、そこに用意してもらってある。 すまぬが、日本茶のおかわりを頼んでもらえるだろうか?」 と言ったのだ。
それはたしかに、一人で食事処に行って昼食を摂るよりは、ここで食べたほうがいくらかはましかもしれん。
妙に美穂に同情されては、たまったものではないからな。
俺はにっこり笑ってホールに行き、茶を頼むと、カミュが碁に夢中になっている間、見たくもない写真雑誌を眺めて過ごしていた。
奥義の伝授はさらに夕食まで続き、腹に据えかねた俺は、たっぷりと寝床の中で俺なりの奥義の復習をさせてもらったものだ。
カミュもさすがに悪いと思ったのだろう、素直な態度を示し、俺は存分に溜飲を下げたのだった。
この講義は恐ろしいことに一週間も続き、やっと老人が宿を引き払っていったときは、どんなにほっとしたことか。
その後のカミュは取り寄せておいた「 定石 」 とかいう本を片手にときどき碁を打っている。
そのころには俺の精神も安定し、カミュの横で珈琲を飲みながら、「 この碁石が緑の翡翠だったらなぁ♪」
などと夢想しているのはそう悪いものでもないのだ。
碁石には、きれいな持ち方というものがあって、中指を上、人差し指を下にして石をはさむのだそうだ。カミュはすぐに会得して、パチンパチンといい音を立てて石を打つ。
俺にも教えてくれたのだが、どうもうまくいかなくて石がポロポロと落ちてしまうのだ。
「お前にしては珍しい。 スカーレットニードルをあれほど正確無比に撃てるというのに。」
「しかたないさ、俺の指はスカニーと、それから…」
カミュの耳元に口寄せてささやいてやる。
「お前を抱くためにあるんだよ♪」
カミュは真っ赤になってしまったが、囲碁については少々恨みもある俺としては、このくらいはよかろうと思うのだ。
俺がそんなことを考えていると、カミュが重ねて聞いてくる。
「で、朗報とはなんのことだ?」
「うむ、今夜の泊り客は俺たちのほかは女性ばかりだそうだ。 だから露天風呂が自由に使えるぜ♪」
「ほぅ、それはよい!」
カミュと一緒に人目を気にしないで露天風呂に入りに行ったのは、去年の夏至、6月21日のことだから、もう9ヶ月も経っている。
春の気配がほの見えてきた3月とはいえ、雪も10cmほどは積もっているのだ。
長い間夢見てきた雪の露天風呂に心が弾むのは当然なのだった。
「で、囲碁は面白いか?」
「うむ、帰ったら老師のお相手が出来るほどに上達しているとよいのだが。」
「さしものお前も相手が261歳では荷が重いかもしれん。大滝の前で、ずっと定石とやらを考えていたかもしれんからな。」
「まさか! あの老師が?」
「人はわからんぞ? 例えば、俺がいまなにを考えてるかわかる?」
「え………?」
急に云われたカミュの頬がやがて赤くなり、自分でそれと悟ったカミュは手で押さえてみるのだが色を抑えることなどできはしないのだ。
「ふうん、お前でもそうなんだ♪ うん、ちょっと安心♪」
「なっ、なにを…そんなことは私は……!」
「いいんだよ……そんなお前が大好きだ……」
かがんで口付けていくと、碁石を持ったままの手がそっと俺の背に回された。
「ほぅ……!」
脱衣室から外への扉を開けた俺は思わず息を飲んだ。素肌を刺すような寒気にも震えがくるが、真っ白い雪に覆われた庭は思いのほか明るくて、透き通った湯からは外気の冷たさを反映してもうもうと湯気が上がっている。
さすがの俺もカミュを探すより、一瞬はこの景色に目を奪われずにはいられない。
「早く湯に入らぬと冷えるぞ。」
珍しくカミュからの声がかかり、俺も急いですこし離れたところに顎まで浸かってほっとする。
「雪ともなると、さすがに冷えるな!」
「うむ、現在の気温は零下二度だ。 私でも、湯に入るまでは身を縮めずにはいられぬ。」
ちらっとカミュの方を見ると、先に湯に入っていたためか頬に血の色が昇り、すぐ近くなのに湯気に半ば隠されてあまりよく見えないのが妙に艶めいて映るのだ。むろん、盛んに立ち昇る湯気が湯の中の身体の線も隠し、安心といえば安心だが、くつろげるぶんだけ、こちらの頭にも血が昇りそうになる。
「いい眺めだな……」
言葉に困ってありきたりのことを言ってみる。
「雪景色は想像してきたんだが、この湯気までは思いつかなかったぜ。」
「夏場はほとんど見えないようでも、この気温では盛んに湯気が上がるものだ。」
カミュが湯から腕を持ち上げ、顔の前の湯気を払ってみせた拍子に、桃色に染まった二の腕が俺をドキッとさせる。
二の腕くらいは毎晩の家族風呂で何度も見ているのだが、いくら人目のないことは保証されているとはいえ、戸外ではやはり気分が違う。
なんとなく秘密めいた気分になるのはどうしようもないのだ。
しばらく黙っていたあと、どちらからともなく打たせ湯まで行くことにした。
「あれ? こんなものが出来てるぜ!」
入ったときには雪と寒さに夢中になっていて気が付かなかったのだが、打たせ湯の上あたりに新しく木の屋根がかかっているではないか。
「なるほど、雨の日でも打たせ湯を使えるようにとの配慮なのだろう。」
「雨の日だけじゃないぜ♪」
「え?」
「雪の日も、だろ? 雪、降らせてくれないかな?」
少し首をかしげたカミュがやがて笑みを含んで頷いた。 湯に浸かったまま、屋根のないところまで移動すると、俺が魂を消し飛ばせたことには、そのまま立ち上がったではないか!あっと思った途端、湯から真白い湯気が層倍する濃さで立ち昇り、桃色に染まっているはずの身体を隠す。
俺が息を飲んでいる間に、片手を空に差し伸べたカミュは金色の小宇宙を放ち、やがて空から白い雪片が舞い落ちてきた。
通常の雪ならば濃い湯気にかなわず湯には届かぬだろうものを、さすがカミュの創り出した冬の使者は湯の表に達してのちに、そのはかなげな形を消してゆくのだった。
茫然として雪とカミュを交互に見詰めていると、濃密な湯気の中でカミュがこちらを振り向いた。
「これでよいか?」
肩から上が見えていて、あまりの眩しさに思わず目をつぶりたくなるほどだ。
首まで湯に浸かったまま、声も出せずにこくこくと数回頷くと、乳白色に包まれたカミュが湯を掻き分けてこちらへやってきた。
あ………
身動きできないでいる俺の前まで来たカミュは、少しためらったあと膝立ちになり、そっとかがんで俺に口付けてきたではないか。
そんなこととは思わずにうっかり息をとめていた俺は、緊張のあまりうまく息ができずに、やたら苦しくて、でも嬉しくて、きりきりと胸が痛くなったほどだった。
白い雪が俺たちのまわりに降り続き、時がとまったようにも思われた。
こうして俺は、定石の世界からカミュを取り戻したのだった。
ようやく叶った雪の露天風呂。
白い世界がカミュ様を少し大胆にして、ミロ様を瞠目させました。
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雪、少しは溶けたかもしれませんね♪
後日談 ⇒
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