薄紅(うすあけ)の 花さうびともなりたしや、
  手づからとりて、
  雪をなす 君が胸わに 飾りたまふと。

                                                           古代ギリシア詩

                                【歌の大意】   薄紅の薔薇になれればよいのに   
                                           そうすれば 君の手が 私を摘んで 
                                           君のその雪のように白い胸に 飾ってくれるだろうに


朝食を終えて部屋へ向かおうとした俺達を宿の主人が呼び止めた。
むろん、それは、カミュと英語で話すということなのだが。
宿の主人はカミュになにかを説明しているようで、横で聞いてはいても、英語のわからん俺にはどうにも歯がゆいものがある。
すぐに話は終わり、東洋風にお辞儀をされた俺たちも、軽くお辞儀を返しておいた。
「なんの話だったんだ?」
俺達の泊まっている離れへと続く屋根付の廊下を歩きながら聞いてみた。
「喜べ、お前の好きな風呂の話だ。」
「え?」

それは、確かに好きだが、カミュに正面切って言われると少々面映いものがある。
温泉に身体をひたすというのはまことによいもので、この楽しみを知らなくてなんの人生か、とつくづく思っているのは紛れもない事実だ。
しかしながら、それに加えて、カミュと一緒に入るというのが、これがまた筆舌に尽くしがたい楽しみなのだ。
といって、今、そんなことを言おうものなら冷たい視線が飛んでくるのは、まず間違いない。
ここはあっさりと頷くだけにしておいたほうが無難だろう。

「毎週金曜日は、湯船に花を浮かべて香りを楽しむサービスをするらしいが、今日はバラの花を浮かべるのだそうだ。」
なにっ!
これは俺でなくても驚くだろう。
バラを部屋に飾ることなら、アフロのおかげで慣れているし、その香りが花の中でも群を抜いていることもよくわかっている。
香水もハーブもポプリもジャムも、生活のありとあらゆるところに使われるバラだからこそ、百花の王と言われるのだからな。
しかし、湯船に浮かべるというのは、まったく考えもしなかった。
古代ローマの貴族あたりならやっていたかもしれんが、日本人というのは恒常的にそんな優雅なことをやっているのか?
するとだ、透き通った湯にバラの花を浮かべて、芳香が漂う中にカミュの白い肌が………いかん、いかんっ!!
俺は頬の内側を噛み締めた。
それでも頬が緩みそうになるのを、必死の思いでこらえてみる。
「ふ〜ん、バラの花を浮かべるとは、えらく優雅なことを考えるものだな。いったい幾つくらい使うんだ?」
「ひとつの湯船に200輪ほど浮かべるらしい。」
「200輪っ!!」
いかんっ、ますますドキドキしてくるではないか!
先日、宝瓶宮の寝室で「ハネムーン」を見たときでさえ、そばに立っているカミュの顔を見るのが恥ずかしかったというのに、今夜は湯船の中のカミュの周りに200輪のバラの花、というのか??!!
きっとその中には「ブライダルピンク」や「ハネムーン」や「オープニングナイト」があるのかもしれん!
バラの品種には他にも「情熱」だの「ラブ」だの「スィートハニー」だの「プリティレディ」だのあったように思う。
以前アフロのバラをほめたら、行きがかり上、バラ園を案内される破目になり、どうせならカミュと関連付けて覚えることにしよう、と気合を入れて名前を聞いてあるいたのが今ここで妙に役立っているわけだ。

その日の俺の乗馬の出来は散々で、カミュに不審がられたのだった。



夕方、宿に戻った俺たちは、さっそくいつもの通り家族風呂へと出かけることにした。
といっても、一緒に行くというわけではない。
最初のときにカミュがえらく恥ずかしがるので、その日以来、俺のほうが10分ほど遅れて部屋を出るという暗黙の了解ができているのだ。
「では、行ってくる。」
カミュが浴衣とタオルを持って部屋を出た。
バラのことを忘れているのか、気にもとめていないのか、まったくいつもと変わりがないのだが、俺のほうはそうはいかん。
考えないようにしようと思っても、どうしても一日中、頭の中に浮かぶのはバラとカミュのシチュエーションだったのだからな、ここは一つ、精神修養だと思って平常心を保つことにしよう!
強い決意を抱いた俺は部屋を出た。

………予想以上だった。
脱衣場から浴室へのガラス戸をそっと開けると、いつも通りカミュは向こうを向いて湯に浸かっているが、その周りは色とりどりのバラの花でいっぱいでまるで色彩の渦ではないか!
ふつう、バラといえば、緑の葉や茎が付いているものを連想するが、この温泉に浮かべているのは茎を短く切り取った花の部分だけなので、ともかく華やかの一語に尽きる。
緑色から切り離された、赤や黄色やピンクや白のバラの花の部分だけを見ることはそうあるものではなく、これは予想外の眺めだった。
その色彩の中で白い肩を少しのぞかせたカミュがまるで花の妖精のような気がして、早くも心臓が高鳴ってくる。
なにか言わなくては不自然だろうという気がして、
「ほう! これはまた見事なバラだな!」
と、ありきたりなことを言ってみた。
ほんとのところは、「どのバラよりもお前がきれいだ!」とか言いたかったのだが、さすがに気がひけたし、カミュも喜ばないのがわかりきっている。
「うむ、さすがによい香りがする。入浴を楽しむことにかけては、日本人は世界一かもしれぬ。」
「まったくだ。」
合槌を打ちながら、カミュに背を向けた位置に腰掛けた俺は、そっと鏡をのぞき見た。
カミュを見ない、ということになってはいるものの、そこはそれ、俺も人間なので気が惹かれないというわけではない。
初日こそカミュのガードは永久氷壁並みに固かったが、何日かたつうちにようやく緊張も解けてきて、昨日あたりからは湯に長く浸かりすぎたときなどは、俺が背を向けているときに限って上半身を湯から出していることもある。
それを鏡の中に見たときはさすがに頭がボーっとなったものだ。
初めて光の中で見るカミュの背はとてもきれいで、もともとの白い肌がほんのりとピンクに染まっているところなどはなんともいえん。
といって、あまり見つめていると気付かれるおそれがある。
なにしろカミュの向こう側の壁にも鏡がついているのだからな、カミュが目を上げて向こうの鏡を見ようものなら俺と目が合いかねんのだ。
まてよ? ということは、カミュからも俺の後姿が見えるんじゃないのか???
俺のほうはどこをどう見られてもいいと思っているが、俺を見たカミュはいったいどう思うのだろう?
どきどきした俺がもう一度鏡の中に目をやると、淡いピンクのバラを手に取っているカミュは、目を閉じて匂いを楽しんでいるらしい。
早く湯船に入りたくなった俺は、ボディーソープをやたら泡立てた。

「入るぜ。」
俺が湯船に入るとき、カミュは必ず横を向く。
こちらとしては見てもらっても一向にかまわんのだが、ともかくカミュは俺を見ようとはしない。
まあ、そんなことはいいだろう、カミュと一緒に温泉に浸かり一日の疲れを癒す、これが一番の目的なのだからな。
初日には一緒に入ろうとしなかったことを考えれば、大進歩といえるだろう。
俺が肩まで湯に入ると、やっと安心したように話が始まるのがいつものことで、そんなに緊張するような仲でもなかろうに、と残念を通り越して、可笑しくなってしまうのだ。
昨日までは透き通った湯の中の身体の線が見えるので、カミュが気にするだろうと、あまり直視できなくていささか困ったのだが、今夜はバラのおかげで気にせずにカミュのほうを向いて話が出来るのはラッキーだった。
浮かんでいるバラは満開のものもあれば、咲きかけのつぼみのものもあり、さまざまに美しい。
こんな利用法もあるのだとアフロに教えてやったら、あいつ、どんな顔をするだろう?
それとも、「私の美を引き立てる」とかいって、実は毎晩やっているのかもしれん、なにしろ製造元だならな。

そんなことを考えていると、急にカミュが俺たちの間に浮かんでいる赤いバラを俺のほうに押しやってきた。
「ミロにはこの真紅のバラが似合うだろう。」
「え? そうかな?」
ビロードのような艶やかな花弁が、湯をはじいて輝くようだ。
「ああ、お前には情熱的なこの花がふさわしい。」
「それなら……」
俺はカミュを取り巻くたくさんの色の渦の中から、淡いピンクを選び出した。
「お前にはこの花がよく似合う。 水と氷の魔術師ならば白も似合いそうだが、この湯で暖められてほのかなピンクに染まっているだろうからな。」
なにげなく言った言葉がカミュにはどう聞こえたのだろうか、横を向いた頬がみるみるうちに朱に染まる。
「照れるなよ。」
笑いながら手を伸ばして、淡いピンクのそのバラだけをカミュの周りに集めてやった。
やっぱりだ、カミュの白い肌にはピンクのバラがよく似合う。
満足げにしている俺をカミュがにらむ。
「お前ときたら、人にばかり花を押し付けて……、自分も赤バラに囲まれてみたらどうなのだ!」
カミュが周りのほかの色の花を遠くに押しやり、俺の前に赤いバラを集め始めた白いその手がしなやかで、俺はつい誘惑に負けそうになる。
「カミュ………」
俺のほうに差し出されたその手を取ると、はっとした蒼い瞳が怯えたように俺を見た。
もう少しで手を引きそうになるのを必死でこらえているようにも思われる。
「何もしない。何もしないから安心しろよ。でも、手くらいはいいだろう?」
最初の日にカミュがあまりにも恥らうので、俺はつい、「ここではなにもしない、一指も触れないから」と約束したのだった。
その後、後悔しなかったといえば嘘になるが、なにしろ温泉なのだからくつろぐことを主眼にしよう、と自分に言い聞かせることにしている。
一緒に入るカミュが始終緊張しているのでは、くつろぐもなにもあったものではないからな。
「言わずにおこうと思ったが、やはり言わないではいられない。………カミュ………」
俺に手を預けたままのカミュの視線が、困ったように赤いバラに移された。
「どんな花よりお前が一番美しい。そう言われるのが嫌なら一番魅力的だと言い換えよう。昼も夜もお前が好きでたまらない。」
「ミロ………また、そんなことを………」
「何度でも繰り返そう。幾千回、幾万回も繰り返し、お前の心にも身体にも染み込ませたい。俺はお前が好きだ。」

   もう、とうに染められているのに…………私はこんなに染められているのに………

カミュの頬が薔薇色に染まったのを認めた俺は、白い指先に口付けていった。




                              霧風燐鬼さまからのキリリクです。
                              星矢界の王道ともいえるギリシア古代詩をいただいてしまい、びっくり!
                              ちょうど「温泉シリーズ」が始まった時期と重なったので、
                              日本の温泉とのミスマッチともいえる作品に仕立てあがりましたが、
                              さて、いかがなものでしょうか?
                              「バラ風呂」というのはホントにあります。
                              検索でたくさん出てきますので、いちどネット入浴と洒落込むのもよいかと。

                              温泉をお楽しみのミロ様、もちろん、これだけでは終わりません(笑)。
                              この続編は「黄表紙」の 「カジュアル『落花』」 をご覧ください。
                             

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