第五章   居酒屋


さして広くもない店の中に二組いた先客はちらっとこちらを見ただけで気にする様子もない。
しかしミロを見るなり声を掛けてきたのはいかにも娼婦然とした女だ。 派手な化粧に大きく胸の開いた服を見れば、いかに物慣れぬカミュといえども素性はわかるというものだ。
「あら〜、待ってたのよぉ〜! ずいぶんとお見限りだったけど、今夜は逃がさないんだから♪」
退屈そうに寄りかかっていたテーブルから離れると、明らかに酔った口調でミロに抱きついてきた。
「よせっ、お前に用はない!」
「うふんっ、あんたにはなくてもこっちには大事な用があるのよ、そこのきれいなお連れさんもわかるでしょ!ねえったら〜、抱いてくれるまで離さないわよぉ〜♪ なんだったら、お連れさんも一緒でいいのよ♪」
初めて会った娼婦から馴れ馴れしく目くばせされて唖然とするカミュの目を意識してか、首に巻きついた手を邪険に払おうとするミロに、
「ほんと、冷たいんだから〜、でもそこがふるいつきたくなるほどいいのよねぇ〜!ほら、あたしの胸、こんなにどきどきしてるのよぉ〜!」
しなだれかかった女がミロの手をつかむと慣れた様子で自分の胸の谷間に差し入れさせたではないか。
「なにをするっ!」
ミロが叫ぶのとカミュがきびすを返したのが同時で、成り行きを面白そうに見ていた店の主人や客をさらに喜ばせたのだが、そんなことはミロの知ったことではない。
「勝手に媚を売っていろ!!」
今度こそ手荒く女の腕を振りほどいたミロが足音高く出て行き、店はどっと笑いに包まれる。
「親父! 酒を持って来い! いい余興だ♪」
「なによ、人のこと馬鹿にするんじゃないよ!あたしよりいい女がこの世のどこにいるってんだい?」
女が地団太踏んで悔しがる。
「お前さんも人を見たほうがいいな、ありゃぁ、女を抱きに来た顔じゃない。もっとほかのこと考えてる目だったぜ。」
「ふんっ、余計なお世話だよ!」
そこへ新たな客が入ってきて、再び満面に笑みを浮かべた女が甘くもたれかかり始めた。

「おい、待てよ!」
振り向きもせずに馬に乗ろうとしたカミュの手をミロが掴んだ。
「どこへ行く気だ!」
「放せっ、私は帰る! ついてきたのが馬鹿だった。 ミロは好きなようにすればよい!」
吐き捨てるように言ったカミュは顔をそむけたままだ。
「まさか、あんな女の言うことを本気にしてるのか? ああいった種類の女は男と見れば誰にでも声を掛ける。 娼婦なんてそんなもんだろうが! 知らないのか?」
「私はミロと違って娼婦に知り合いはいないから、そんなことは知らぬ!」
「誰が知り合いだと言った? 」
「あの女が、ずいぶんとお見限りだと言っていた! きっと………きっと前に…」
寝たことがあるのだろう、と思っても、とても口には出せないカミュなのだ。 思わず口ごもってこぶしを硬く握りしめた。

   私は………私は、なにを考えている?
   これではまるで、あの女に嫉妬しているみたいで………
   ミロが娼婦を抱いたとしても、それがなんだというのだ?

「いいか、よく聞け! 娼婦ってのは…」
ここで男が近付いてきたので二人とも黙り込む。 男が酒場に入ってしまうとミロが一段と声を落とした。
「娼婦ってのは5、6軒の酒場を縄張りにして客を引いてるんだよ、いい客とみれば誰にでも声を掛ける。確かにあの女を見かけたことはあるが、向こうだって俺を見たことはあるだろうさ。その程度でも、いかにもよく知った仲のような口を利くのが娼婦ってものだろうが、ええ? そうだろう?今ごろは俺のことはきれいさっぱり忘れて、新しい客に声をかけてるさ。」
「私は………私はどうせなにも知らぬ! 娼婦と口をきいたこともないし、そんな女の縄張りになっている店に入ったのも初めてだ。 五年間ずっと心配していたのに、ミロの父上と母上が亡くなられたことも、ミロが黒い騎士になっていたことも、なにも知らなかった………!」
つい夢中になってカミュを石壁に押し付ける形になっていたミロが はっとした。
言葉を震わせたカミュはうつむいてもう何も言わぬ。 掴んでいた手はとうに力を失っていて、あまりに強く締め付けられていたため血の気をなくしているのだった。
「カミュ………すまない、カミュ………お前を泣かせた……」
そっと抱き寄せて頬にかかる髪をかきあげると涙に濡れた頬が露わになった。 恥じて顔をそむけようとしたところを許さずにやさしく唇を重ねてゆく。

   人が………人が見ているかも知れぬ

   見させておくさ………どうせ、この暗闇だ、誰にもわかりはしない

   ミロ………ミ…ロ………

おずおずと伸ばされた手が黒いマントの下の背に回される。その手の暖かさがミロにはとても嬉しかった。