第六章   酔い


「河岸 ( かし ) を変えよう。」
「え? 河岸って?」
ひとしきり確かめ合ったあとでミロが言った言葉をカミュが聞きとがめたようだ。
「飲むところを変えるという意味だ。 まさかいつまでもここにはいられまい。」
まだ頬を赤らめているカミュを促して馬に乗り、さて、どこに行こうかと考える。

   どうも、娼婦なんかの出入りする店は鬼門のようだ
   といって、あまり品のいい店では、いつカミュの知り合いに会うかわかったもんじゃない

夜もこのくらい遅くなると、開いている店は居酒屋か連れ込み宿に限られる。まったく知らない店など、なにが起こるかわからないのでいきなり飛び込む気はさらさらない。
考えた末に、ミロはフォッソワイユール街の居酒屋にカミュを連れて行くことにした。ここは家庭的な店で娼婦が出入りするようなことはないのだが、この場合の欠点はミロの住まいに近いことである。しばしば食事をすることがあるので顔も名前も住まいさえも知られており、宝石を渡した後は居酒屋の二階でカミュと……と考えていたミロの目的には、およそそぐわないのだ。そもそもこの店には、そういった目的のための貸し部屋すらない。

   ………まあ、いいだろう
   キスまでしたのだから心は通じている  またの機会を待てばよい

気持ちを切り替えて馴染みの店のドアを開ける。
「あら、いらっしゃい!」
明るい声が迎えてくれて、カミュにも店の暖かい雰囲気がわかったようだ。 三組ほどいた先客もここの常連らしく、ミロを見て親しげに合図を送る。安心したように隅のテーブルに座を占めたカミュが、ほっと溜め息をついた。
「ここはミロの行きつけの店?」
「まあね。 けっこううまいものを出してくれるぜ。」
立場上、自分の立ち回り先など知られたくはないのだが今夜のところはやむをえない。
「おい、ワインとなにか手頃なのをみつくろってくれ!」
そんなことを言わなくても魔法のように目の前にワインとグラスが並べられ、湯気の立っている料理が運ばれてきた。
「ああ、これは良い!」
緊張が解けたらしいカミュが笑顔を見せて、どうやらここが当たりだったかと今さらミロは思い知る。難しい話や色めいた話は慎重に避けて愉快な思い出話に終始していると、だんだんカミュの口数が少なくなってきた。
「疲れたか?」
「いや………そんなことは…」
けだるそうな返事に怪訝そうな目をむけたとき目を閉じたカミュが椅子の背にもたれかかった。
「おい………大丈夫か?」
「酔いが………回って………」
それきり返事はなくて、ミロは茫然とする。 にわかには信じられないが、真っ赤な顔と荒い息が酔いの事実を証明しているではないか。
「え? だって、まだグラス一杯しか飲んでないだろう? ほんとに?」
ミロの知る限り、ここまで酒に弱い人間は見たことがない。 フランス人ならワインの2、3本は平気で空けるし、朝まで飲み続けても少し足がふらつくくらいなのが平均的な酔い方というものだ。

   グラス一杯って………カミュ、お前は深窓の貴婦人か?

もうじき店が閉まる時刻だ。ミロは途方に暮れた。


「まったく、どうしてこんな破目に!」
ぼやきながら暗い階段を昇っているのはミロである。 酔い潰れたカミュを支えながらなんとか外に出て、店の亭主の助けを借りながらぐったりした身体を鞍の上に押し上げると、落馬しないように運ぶのも一苦労だったのだ。1ブロック先の、間借している部屋のある建物の中庭に馬を引き入れて、さてそれからカミュを肩に担ぎ上げ二階へと運んだときには、自分の部屋が三階でなかったことを神に感謝した。
ようやくドアを開け、やっとの思いでそっとベッドに横たえる。 何も知らずに無心に眠るカミュの頬が薔薇色に染まり、半ば開かれた唇から洩れる吐息は階段を昇っている途中からミロを悩ませていた。
「全然 予定と違うんだが……」
溜め息をつきながらベッドに腰掛けて靴を脱がせて衣服を少し緩めてやった。
意識のないカミュをどうこうしようという気はまったくないのだ。 そういうのはあとから知ったら不愉快に決まっているし、ミロとしても思いを伝えるために抱くのであって、抱くこと自体が目的ではないのだから、肝心のカミュの意識がないのでは困るのである。
もしかして目覚めないかと軽く頬を叩いてみたり耳元で名を呼んでみたりもしたが、どうにも起きる気配はない。
「ほんとにお前って奴は………酒に弱いなら最初からそう言ってくれ。」
この顛末には苦笑するしかないではないか。 こんなことなら、あの森の中で行くところまで行ってしまったほうがよかったような気もするし、いやいやそれよりはゆっくり時間をかけたほうがいいに決まってると思い返してみたりする。
ともかく今夜は寝るよりほかにすることがない。
「せめて一緒に寝かせてもらうぜ。 文句はないだろうな。」
まだほてっている頬をつついて言ってみる。 むろん文句の出ようはずもなく、ミロは眠るカミュの横にもぐりこんだ。 蝋燭を吹き消すと、窓からわずかに差し込む月明かりだけになり、カミュの顔もほとんど見えはしないのだ。
ちょっと惜しいなと思いながら、やさしく抱きしめてそこここに唇を押し当てる。艶やかな髪もなめらかな頬もふっくらとした耳朶も全てがミロの思いのままだ。

   これも案外いいじゃないか………五年分の想いをそれなりに遂げさせてもらおうか………

腕枕をさせるようにして抱きこんで少し足を絡めてやると小さなため息が洩らされた。

   朝まで持つといいんだが………

苦笑いしたミロが目を閉じる。 すぐに眠れたかどうかは秘密である。