第七章   朝に


パリの朝は早い。
まだ暗いうちから鳥の声が聞こえ始めて、それを目覚まし代わりにした人々が起き出すのだ。ミロの部屋の階下はパン屋の工房で、戸を開けたてして職人の出入りする物音がカミュを目覚めさせた。石臼で粉を挽く音がごろごろと低く聞こえ、聞きなれぬ響きを不思議に思う。

   まだ暗い………何時頃だろう……

覚醒しきらない頭でぼんやりとそう思ったとき、左の耳たぶが急に熱く濡れたようになり、なにか柔らかいものに包まれた。経験したことのない不思議な感触に違和感を覚えたとたん、湿った音と息遣いが耳元で聞こえてきてそれが人の唇であることに気が付かされる。あっと思った瞬間、自分が誰かの腕に抱かれていることを感じて息を飲み、身を返して逃れようとすると力強い手に引きとめられた。あやうくパニックになりかけたとき、
「あれ?気が付いちゃった?」
少し残念そうな声が返ってきてカミュに事態を知らしめた。
「………ミロ? ……ミロか?」
「もちろん俺に決まってる! ほかに誰がいる?」
朝の気配が忍び寄る部屋は少し明るくなっている。 ミロの金髪がさらりと揺れるのが見えたとき唇がやわらかく重ねられた。

「だから、お前があのあと酔い潰れたんで、しかたなく俺の部屋に連れてきたんだぜ。おかげでえらく苦労した。」
「でも……なにも覚えてないが…………あの……そろそろ放してくれないか?」
「あ〜、それはだめ。 言っただろう? 俺はお前が好きなんだから、こんなことは当たり前だよ。」
「そう………なのか?」
互いに服を着ていることに安心しているのか、カミュはベッドの中で抱かれていることに困惑してはいるものの、森の中とは違ってそれほど危機感は感じていないようなのだ。 ベッドが一つだけなのだから一緒に寝るしかなかったのだと考えているふしもある。ただ、ミロがときどき首筋や頬に口付けるので居心地悪そうにしてどぎまぎしているようなのだった。

   酔い潰れてさえいなければ、いくところまでいっていたってことがわかっているのかどうか?
   ………待てよ?
   そもそも、こういった場合の愛の交わし方を知っているかどうかも疑問だな………

昨夜のことを思い返してみても、娼婦の出入りする店に入ったことがなく、声を掛けられたこともないというカミュなのだ。銃士隊の仲間同士での付き合いはいったいどんなものなのか。
いくら国王直属の銃士隊といえども、そこまで品行方正とは思えないが、グラス一杯で酔い潰れるカミュの場合はあまり誘われることもないだろうから、下世話な話を聞く機会もなかったことも十分に考えられる。

   ……すると、育ちが良すぎてなにも知らないとか?
   まさか男女の仲のことくらいは知っていると思いたいが、男同士の場合は理解の範疇をこえているかもしれん
   それは俺にしても初めてだが、耳学問だけはたっぷりとしているからな
   ふうむ………次に逢うときにどうするかが問題だな……
   いきなり本気で抱くのはまずいのか?
   しかし、説明してから実践なんて、王立アカデミーみたいな真似ができるかっ!

こうした状況に慣れなくてどうにもきまりわるそうなカミュを抱きながら、ミロの想いは千々に乱れる。
階下からパンを焼く香ばしい匂いが流れてきた。

「美味いだろう?」
「ほんとに! ここまで焼き立てのを食べたのは初めてだ!」
さして広い部屋ではない。 ベッドのほかにはあっさりとしたテーブルと椅子、それに備え付けの箪笥が二棹( さお ) あるきりだ。
ミロは朝からワインを開けているが、昨夜のことをふまえてむろんカミュには紅茶が用意されている。
「ほんとに弱いんだな。」
「え?」
「これのことだよ、ワイン。」
グラスを持上げたミロがにやりと笑い、透き通った真紅の色が揺れる。
「それについては私も困っている。 すぐに酔いが回ってしまうので人付き合いが難しい。」
眉をひそめたカミュがテーブルの上の籠に手を伸ばす。
「もう一つ頂こう。」
「幾らでも食べてくれ、足りなければまたもらってくる。」
「まるでただのように聞こえるが?」
階下で焼いているパンが焼けたころを見計らって下に降りていったミロが籠一杯のバタールやらシャンピニオンを持ってきてカミュの目をみはらせたのはついさっきのことだ。釜から出したばかりのパンがまだ熱くて、さすがにそんなパンを食べたことのなかったカミュを唸らせる。
「ああ、このパンはただなんだよ。」
「え?」
ウィンクしたミロが語るには、先月の深夜、翌日のために仕込みをしていたパン工房に押し込み強盗があったのだという。 物音と悲鳴を聞きつけたミロが階段を駆け下りて、中で物色していた三人の不逞の輩をあっというまに叩き伏せて急を救ったのは当然で、それを感謝した店主からパンを幾らでも提供されるようになったのだという。
「このごろのパリの治安はよくないからな。 ここの店主ももう少しで殺されるところだったんだぜ、額に汗してまっとうに働く小市民の暮らしを守るのが政治ってもんじゃないのか?ごく普通の小麦粉を使った白パンだって、すでに貧しい庶民の口には入らなくなってきてる。このままでは暴動が起きるぜ。」
「それは…」
カミュが困ったように目を伏せた。 一昨日の夜、ミロと出会った経緯が胸をよぎる。
「おっと、固い話はやめよう! それに、治安については俺にも多少責任があるからな。」
苦笑いしたミロがチーズを口に放り込む。 ワインとチーズとパンの相性は最高にいいのだ。
「また来いよ、ここにいれば最高のパンが食べられる。」
「そのようだな。」

   そして、こんどこそお前をゆっくりと味わってみたいし…

食べ物で釣るつもりはないのだが、今のカミュに、抱かれるためにここに来いとはいいづらい。むろんカミュもそんな理由に真正面から向き合いたくないだろうことは明白で、この焼き立てパンの美味さは思わぬ天の配剤としか思えない。
「次は私がワインとチーズを持ってこよう。」
「そいつは楽しみだ。 ただし、お前はグラス半分だからな。 酔い潰れちゃ、話もできん。」
「それはよくわかっている。」
恥ずかしそうに顔を赤らめたカミュが遠慮がちに次のバタールに手を伸ばす。
どうも、艶めいた関係とは程遠いような気もするが、元が幼馴染みなのだからかえって自然ともいえるのだ。

   ゆっくりと愛していこう………これは革命とは別の話だからな

ミロが二本目のワインの栓を開ける。 二人で食べる朝食はまことに楽しいのだった。