第八章   肖像画


日ごとに不安な空気に包まれてゆくパリの中で、カミュの住んでいるサン・ドミニック街の治安は比較的よく保たれているほうだろう。 街路も掃き清められてきれいだし、無人になって久しいミロの住んでいた屋敷にも人が入り込んだりした形跡はないのだった。
外塀に絡んだ蔦類はカミュの屋敷で人を出してこまめに取り除いていたし、通用門の鍵が壊れているのを見つけてからは新たに鍵をつけさせてそのついでに屋敷の外回りにも手入れを欠かしていないのだ。 かつてそこに住んでいた家族の想いを継いでやりたいという夫人の願いを快く聞き入れたカミュの父が庭木や草花の世話もさせているので、知らない者が見たら無住の屋敷とは思わないに違いない。
外出から戻って自邸に入る前に隣りの屋敷に目をやるのは、小さいころからカミュの習慣となっている。 ミロの姿が見えれば手を振り、いなければ訪ねてゆく日々だったのだ。
ここにミロが住んでいたころはなんの心配もなく輝かしい未来を夢見て互いの屋敷を行き来したというのに、今の有様はどうだろう。 大きく開かれていた門扉は固く閉ざされたままで窓のカーテンはけっして引かれることはない。 馬や馬車が忙しく出入りして活気にあふれていた時代がこの屋敷を見捨ててから5年の歳月が経っているのだった。

あれからミロとは幾度も逢って旧交を温め互いの想いを語り合い、再び心を通い合わせることができたことがカミュのひそかな喜びとなっていることは言うまでもない。
「それじゃ………お前もずっと俺のことを……?」
「ん………そう思ってくれて……よい…」
最初に森の中で尋ねた問いの答えを聞きたいと再び言われて、カミュはついに口を割らされた。 そんなことを言う気はなかったというのに、とても隠しおおせない状況に追い込まれたのだ。 吐息にまぎれて返された途切れ途切れの答えがミロを狂喜させ、カミュをいだく手に一層の熱を込めさせたのは当然だったろう。
「会えてよかった! 俺はほんとにそう思う!」
「私も……」
「あの晩、俺を追ってきたのがレオナールだったとしたら、どうなっていたと思う?」
「どうなってっ、て………剣を抜いて闘っていた可能性もあるだろう。 どちらが傷ついても私は困る!」
「いや、そうじゃなくて………お前がここでパンを食べられなくて悔しがるだろうと思ってさ。」
「あ…それは確かに困る!」
「だろ? 朝になったら、またもらってこよう。 友人が来てるから、って言ってクロワッサンを頼んでおいた。 こいつはちょっといいぜ、このごろ流行ってる。 でも、まだ朝じゃないから♪」
と、もう一度カミュを抱きにかかるミロなのだ。

「では、頼む。」
その日の帰りにカミュは鍵を手渡された。
「ほんとに来なくてよいのか?」
「ああ、思い出は心の中にしまっておこう。 すまないが、お前一人で行ってくれ。」
「わかった。」
手渡されたのはミロの屋敷の鍵だ。 ミロの姉のロザリーが持っていたのを手紙を書いて取り寄せて、やっと手元に届いたのはつい昨日のことだ。
いずれ市民が蜂起したときには、貴族の屋敷の全てが灰燼に帰すか略奪の憂き目に遭うかのどちらかだろう。 その前に思い出の品を持ち出そうと提案したのはカミュのほうだ。 ミロの一家がパリを離れるときはあわただしくて、ほんのわずかの身の回りのものと、ある限りの宝石類を持ち出せただけなのだ。
「私の家のことを心配してくれるのはありがたいが、それと同じくミロの屋敷のことも私は考えたい。 あの時に持ち出せなかった大事な品がまだ残っているだろう? ミロにはできなくても私ならできる。 目立たぬように、父と母がいないときに馬車一台分くらいは運び出せるから。」
男のミロには未練はなくても、田舎で嫁いでいるロザリーにはどれほど愛着のある品が残されたままになっていることだろう。
ミロたちがいなくなって以来、親しかった家族の行く末を案じ、慈しんでいた身の回りの品々を置いていかなければならなかった婦人たちの哀しみを自分のことのように嘆いていた母をすぐそばで見ていたカミュには、ロザリーの想いが容易に想像できた。
「ロザリーの住まいにはそのくらいの量なら置けるのだろう? きっと喜んでくれるに違いないから。」
迷惑をかけるから、と渋るミロを説き伏せてやっと届いた鍵なのだ。

三日後、機会を見てカミュは隣の屋敷に足を踏み入れた。
懐かしい門を押し開けると錆び付いていた蝶番が重いうめきを上げてカミュの心臓をどきりとさせる。 五年の間 閉ざされていた扉を開いてホールに入ったときには、止まっていた時間が一斉に動き出したような気がしたものだ。
何も変わらぬように見えるホールを横切り右手のサロンに入れば蓋を開けたままのピアノが見えて当時の楽しかったひとときを思わせる。 開いたままの楽譜はロザリーが好んで弾いていたクープランのクラヴサン曲集で、鍵盤に指を走らせるロザリーや、周りを囲むミロや家族たちの幸せな様子を彷彿とさせるのだ。 
埃の積もった鍵盤を叩いてみると、ずっと調律をしていないので旋律は調子がはずれていて、それが無情のときの流れを思わせる。  さすがに涙を抑えることができなくて、ミロがここへ来ようとしなかった気持ちがよくわかったことだった。

   ミロは、パリに戻ってきてもこの屋敷の前を通ることさえしていないに違いない
   どうしてそんなことができるだろう………かつて暮らしていた屋敷を冷静な気持ちで見ることなどできるはずがない

ロザリーのために数冊のクープランの楽譜を選び出してピアノの上に置いてからカミュは二階へ上ることにした。 もっとも持ち出したいものは寝室にある家族の肖像画なのだ。
ミロの部屋には、まだ小さい子供たちと若い両親がいかにも幸せそうに描かれている絵がかかっていた。 あんなことさえなければ、今でもミロが眺めていたに違いないその肖像画を壁からはずし、ミロから頼まれていた何冊かの本を探し当てるとカミュはロザリーの部屋へと入っていった。 初めて入るその部屋はいかにも女性らしい優しさに満ちていて、それがひんやりとした空気の中で寂しい色を見せていることに胸がきりきりと痛む。 もしロザリーがここに来たら、泣き崩れて立ち上がれないのではないかと思うのだ。
ここでは夫人の肖像画を見つけて、それもカミュの手ではずされた。 そのほかに化粧台の上から、きっと大事にしていただろう手鏡や香水の瓶などのこまごまとした品物を選び取ってゆくと、それだけで抱えるほどの荷物になった。
夫妻の寝室にも幾つもの絵が掛けられており、カミュが何回も往復して階下に荷物をまとめてみるとすでに馬車一つ分の量にはなるのだった。 とても一人では無理なので、いったん屋敷に戻って信頼できる従僕を呼んできた。
「さようでございますか! では、ミロ様にお目にかかられたのですね、それは、ようございました!」
カミュが生まれる前から屋敷にいるプランシェは我が事のように喜び、また涙を滲ませて荷物を馬車に積み込みはじめたが、
「カミュ様、あの絵はお残しなさいますので?」
と暖炉の上の肖像画を指差したものだ。
「あれは大き過ぎてとても運べないから、残念だが残してゆくほかはあるまいと思う。」
縦が2メートル、横が1.5メートルほどもあるその絵はミロたちがパリを離れる少し前の平和だった時期に描かれたもので、画家から届けられたときにこの場に居合わせたカミュにも懐かしいものなのだ。 5年前の幸せな家族がそこにいた。 ロココ様式の椅子に掛けた夫人は美しいドレスに身を包みやさしい笑みを浮かべている。 そばに寄り添うミロの父は誇らしげに妻の肩に軽く手を置いていた。 ミロと姉のロザリーは二人とも両親譲りのきれいな金髪と青い目をしてまっすぐにこちらを見ているのだった。
予想以上の出来栄えに喜んだ夫妻が嬉しげに寄り添って眺めていた姿をカミュは今もよく覚えているが、いかにロザリーのもとに届けたくてもこの大きさではとても運べるはずがない。
「とんでもございません! こういったものは、額からはずして巻いて運ぶことができますので。」
「え?」
カミュを驚かせておいて屋敷から幾つかの道具を持ってきたプランシェは、暖炉の上に登るとカミュの手を借りながら額をはずし、器用にキャンバス地を木枠からはがしてくるくるっと丸めてしまった。
「いかがでございます? これでロザリー様にお届けできますよ。」
「ほぅ! そんなことができるとは!」
丸めてしまえば、何のこともありはしないのだ。 人の知恵は借りるものだと思い知る。
「ところで、差し出がましいことですが、この荷物をどうやってロザリー様のところへお届けするのでございますか? 先ほどは、旦那様には内密になされるとのお話でしたが。」
「それは………」
運送を生業とする業者に頼むにはあまりに貴重な荷物で、昨今の不穏な情勢を考えると不安があるのは事実なのだ。
「わたくしの思いますに、ともかく奥様にすべてお話しになって、一切をお任せするのがよろしいかと。 奥様のお許しがいただけましたら、私が責任を持ちましてロザリー様にお届け申し上げます。 おそらく奥様は旦那様にもお話しなさいますでしょうが、なにもいけないことはないと存じます。」
言われてみれば、ミロが黒い騎士であることさえ伏せておけば、なにも隠す必要はないことなのだ。 父と母が以前からミロの家族の安否を気にかけているのはわかっているし、漠とした想像を持ち続けているよりも、夫妻の亡くなったことや子供たちの無事を知らせるのが順当ではあるのだった。
「では、そうしよう。 この屋敷の正式な後継者からこの鍵を預けられたのだから、何を迷うこともない。」
プランシェにしてみれば、カミュが何を案じて秘密にしたがったのかわからなかったろうが、黒い騎士の一件がカミュを隠密裏に行動させたのだから、これはしかたあるまい。

こうして数日後、隣り屋敷の荷物を満載した馬車が門を出て南に向っていった。 ミロたちの消息を知らされた夫妻が驚愕し、ひとしきり涙を流した夫人から根掘り葉掘り問いただされたカミュが赤面を抑えつつ知り得たことを話したのはご想像の通りである。
馬車には夫妻からロザリーへの心を尽くした手紙と贈り物も積み込まれ、念のための護衛もつけたのだからなんの心配もありはしないのだった。

「だから安心だ。 三日もすればロザリーのところへ着くだろう。」
「そこまでしてもらって………黒い騎士の仮面は捨てて、俺もお前の屋敷に礼を言いに行こうと思う。 パリにいるのに、黙っていたら恩知らずってことになる。 それでは父と母に顔向けできん!」
「うむ、それがよい。 実は、すぐにでも連れてきてくれと言われている。」
「あ……やっぱり?」
困ったように笑うミロには、黒い騎士の厳しさはない。 そこにいるのは幼な馴染みのミロなのだ。
「で、お前にはどうやって礼をしたものだろう?」
「当たり前のことをしたまでだ。 礼など要らないが。」
「そうもいかんだろう、といって今の俺に財産があるわけじゃないからな………」
「それなら、明日の朝に焼きたてのパンを所望する。」
「それだけ? その他には ないの?」
くすりと笑ったミロが顔を近づけてきた。
「そのほかって……?」
「例えば、俺にやさしく抱かれたいとか、もっと愛されたいとか、朝まで寝かせないでほしいとか、心をとろかすような甘い言葉を聞きたいとか、俺の手で…」
「わかった! もうわかったから、そんな恥ずかしいことを言わなくても………!」
「……で、どうなの?」
「ん………」
じっと見つめられたカミュがとうとう根負けしたようだ。
「あの………それも所望する…」
「了解♪」
ミロが満面の笑みを浮かべた。