第九章   黒い騎士再び


「明日は逢えない。 理由は聞くな。」
「ん………」
幾度繰り返されたかわからない抱擁と慈しみの中で聴く声がカミュに不安を抱かせたが、理由を聞くなと釘を刺されてはどうしようもない。
「私も銃士隊に顔を出さねばならぬ。」
「そういうことなら、お互いの義務に励もうぜ。 でも今は………」
「あっ…」
笑みを含んだミロが一層の愛に励み、抱かれるカミュに言葉を失わせていった。


「この頃のパリの治安は極めて悪い。」
翌日、銃士隊の詰め所で顔を合わせたレオナールが開口一番そう言ってきた。
「毎日のように各所で略奪が起こり、市民との小競り合いも頻繁だ。 このままではいずれ市民の一斉蜂起も有り得るのではないのか?」
「私もそれを懸念している。」
レオナールの兄は副隊長を勤めており、このところの治安の悪さを案じて詰め所に泊り込むことも多く、まだ独り身のレオナールもいきおい詰め所が住まいのようになっている。 そんな関係からレオナールはパリの治安についてはカミュなどより詳しい情報を持っていた。
「このところ鳴りを潜めていた例の黒い騎士だが、三日前にはアルトワ伯から注文を受けていた首飾りを納品しに行く宝石商の馬車を襲い、あらいざらいかっさらって民衆の拍手喝采を浴びている。 大きな声では言えないが、アルトワ伯に同情する気にはとてもなれん。  といって、奴を支持している民衆と一緒に拍手をするわけにはいかないからな。」
アルトワ伯は国王ルイ16世の弟で、その軽薄で享楽的な性格から人望などは皆無だったが、王妃マリー・アントワネットに夜遊びや賭博をそそのかすポリニャック伯夫人と同類と見られており、民衆の憎悪の的となっているのである。
「王妃も早く気付いてくださればよいのだが、このままでは悪い方向に行くばかりだ。」
眉をひそめたカミュは黒い騎士への擁護も追及も言いにくく、つい困惑してしまうのだ。
「そういえば先月黒い騎士に奪われた宝石は結局すべて取り戻せたのだろう? よくやったな! 隊長もいたくお喜びだ。」
レオナールに真顔で誉められて、ますますカミュは困惑顔になる。 あの夜に森で抱かれてあわやという危急のときにレオナールの、ミロに言わせれば邪魔が入り、宝石の半分を胸に散りばめられたことは記憶に新しい。 その経緯には口をぬぐって翌日隊長に返還しただけでも心臓が高鳴ったというのに、その夜に残りの半分を返されてみて、続けざまに取り返したという報告がしにくくて昨日までひそかに保管しておいたのだ。
昨日、新しく発見された賊の立ち回り先を捜索しているときにいかにもたった今見つかったかのようにして戸棚の奥から革の袋を取り出して見せたのは上出来だったといえよう。出動のたびに宝石がずっしりと入った革袋を懐に忍ばせるというのはあまりに危険すぎるというものだ。
「ああ、これでなんとかあの夜の件は片付いた。 しかし、黒い騎士は捕まえられぬのだから、とても満足はできないが。」
さりげなく言いながらカミュは昨夜のことを思い返してみる。

  「お前になら、捕まってもいいぜ。」
  「え?」
  「というか、もう捕まっているも同然だ。 だって…」
  「あ……」
  「俺はこんなに夢中なんだからな………もうお前から離れられない……カミュ………」
  「ミロ………」
  「それから………できれば明日はテュイルリー宮のあたりには近付かないほうがいい……」
  「……え」
  「心の隅に留めておけ………俺に言えるのはそれだけだ。」
  「わかった……」
  革命前夜のパリでは明日の命もわからない。
  その想いが二人を熱く燃え立たせ、追う者と追われる者の夜毎の逢瀬を色濃く染めた。

気が付くと、レオナールがいぶかしげにカミュを見ている。
「お前にしては珍しく熱くなってるな、そんなに気合いを入れるとは!」
「いや、そんなことは………」
そんなつもりはなかったのに、昨夜の互いの振る舞いを脳裏に思い浮かべてしまい、そのせいで血の色の昇った頬の熱さをレオナールに勘違いされてはますます赤面するというものだ。
「ところで今夜はコンデ公の舞踏会がある。 この時期に舞踏会という感覚が理解しがたいが、主だった貴族の屋敷は軒並み留守になり使用人の気も緩む。 この機会を反王党派が見逃すとも思えない。 朝まで警戒を緩めるなとの隊長の命令だ。 眠れないと思ったほうがいい。」
「もとより、そのつもりだ。」
頷いたカミュは昨夜のミロの言葉を思い出す。 「明日は逢えない。 理由は聞くな。」
明日の朝まで顔を合わせないことを願わないではいられない。 そして、お互いの無事も。

そして、その夜更けにやはり事が起こった。
貴族の屋敷を襲った賊を見つけてポン・ヌフのあたりまで追い詰め、もう一息というときに伝令が駆けつけてきた。
「テュイルリー宮の一角で火の手が上がりました。 市民が集まって混乱が起こっています!」
「すぐに行く! 」
銃士を二手に分けて半数をその場に残し、隊長がテュイルリー宮に引き連れていくものの中にはカミュも含まれているのだ。 昨夜のミロの言葉がよみがえるが、ここは仲間と共に進むしかないのだった。
テュイルリー宮はルーヴル宮殿の隣りにあり、200年以上も前にカトリーヌ・ド・メディシスが建築を命じた宮殿だ。 カミュたちが駆けつけたときにはすでに火は消し止められていたが宮殿前広場の混乱は続いていた。この機に乗じて騒乱を煽る者がいるとの情報もあり警戒しながら広場に馬を乗り入れたとき、右手から馬を飛ばしてきた一団と鉢合わせをした。
「賊だっ! 黒い騎士もいるぞ、逃すな!!」
緊迫した声に高鳴る胸を抑えながら目を凝らすと、散り散りに別れた賊のうちたしかにミロらしい金髪が目の前を横切ったではないか。 ゾクリと神経が波立ち、喉がカラカラになる。
このときには銃士隊と賊の現われたのに気付いた民衆が騒ぎ始め、広場は混乱状態に陥った。 怒号に交じって子供の泣き騒ぐ声もして、月明かりに照らされた広場には数百人ほどがいるのだった。
「カミュ! そっちの左の奴を追え!」
隊長の声に賊を追い詰めていったとき、急に後ろで新たな火の手が上がる。 はっとして振り返ると、火勢に驚いた民衆が一斉に広場から逃げ出そうと先を争って駆け出して、その人波から二人の子を抱きかかえてもう一人の子を連れていた女が遅れがちになっているのが見えた。 ちょうどそのとき乗り手を失った馬が火に驚いて狂ったように駆け出してきたのだ。 恐怖に怯えた子供が転んだが、母親も逃げるのに必死で気付かない。 見ている者から悲鳴が上がる。 振り返った母親の目の前でやっと立ち上がった子供が今にも狂奔する馬蹄にかけられようとしたとき、横手から一頭の黒い馬が矢のように走り出て腕を伸ばした乗り手が近寄りざまに子供をぐいっと引き上げたのをたしかにカミュは見たのだ。 黒い馬の尾に奔馬の鼻息がかかったろうと思われるほどの間一髪の出来事に大歓声があがり、母親は二人の子を抱いたままへたへたとその場に座り込んでしまった。
黒い馬の乗り手は明らかにミロで、広場を大きく輪乗りして母親のところに戻ってくると子供をすいと下ろしてやった。 わんわんと泣く子を抱きしめた母親の涙ながらの礼に帽子を取ってなにか言ったとき、月の光に金髪が鮮やかに輝き見る者の目を奪う。 それからすぐさま馬首を返し広場を突っ切ってゆくさまに再び歓呼の声が響く。 これでは銃士隊もどうすることもできないではないか。下手に追いかけようものなら、怒った民衆に石を投げられかねないだろう。
「火を消せ! 市民を家に帰らせよ!」
隊長の命令にほっとしたのは市民も銃士も同じことで、やがて騒ぎも沈静化していった。

任務を終えて隊列を組み帰路についていると、隣りを進むレオナールが馬を寄せて話しかけてきた。
「ここだけの話だが、奴に悪いことをしたような気がする………」
「…え? なんのことだ?」
「黒い騎士が子供を助ける前に、あいつとやりあって左肩に傷を負わせた。」
「……なにっ?!」
「それなのに奴は躊躇せず子供を助けに出たんだからな。 痛む左手で手綱を操り、身をかがめて子供をすくい上げるなんて真似ができるか? 正直言って俺には無理だ、自分が落馬して馬の蹄にかけられるのが目に見えている。 たとえ蹄は避けられても、馬から下りてしまえばすぐに俺たちに捕まるだろう。 もし、奴がそれを考えて出てこなかったら、あの子供を殺したのは俺のようなものだし、出てきた奴が落馬して子供と道連れになってもやっぱり俺のせいだったかもしれない。 それを思うと………」
「それは……」
「正直なところ、黒い騎士のやっていることは、そんなに間違いではないと思う。 王室も貴族も自分の享楽に耽るばかりで国家の行く末など見てもいないからな。 もしも銃士隊でなかったら黒い騎士を同志と呼んでいたかもしれない。」
「うむ……」
「明日、詰め所の前で左肩に怪我をした金髪の若い男とすれ違っても気がつかないことにする。 そんな男はパリにはたくさんいることだろう。」

   ミロ………聞こえているか?
   ここにもお前と心を通じ合わせることのできる者がいる……

それぞれの想いを胸に通ってゆく路は夜露に濡れて月の光を帯びている。
痛む左肩をおさえてこの空の下のどこかにいるはずのミロの姿を思いながら、カミュも馬に揺られていった。