ミロ法師  その5

「このように安穏に過ごしていて良いのだろうか?」
カミュ姫に助けられてから早や七日、ミロ法師は屋敷の広縁に立ち、美しく整えられた広大な庭を眺めながら呟いた。
育ての親であるアイオリアと魔鈴が猛反対するのを何とか宥め、頼み、せがみにせがんでやっと許して貰った京の都への旅だ。 けれども、寄宿しているこの屋敷でのミロ法師の扱いは、姫と乳母にあれやこれやと世話をみられることに馴れないミロ法師の気恥ずかしい気持ちを除けば、上に も下にも置かれぬ丁重さで居心地がよすぎるといえよう。
今まで、時間があればアイオリアや魔鈴の手伝いをしたり、心身を鍛えるために身体を動かしていたミロからすれば何だか怠けている様な心持ちになってしまうのも無理からぬことである。
そんなことを考えているうちに不意に身体を動かしたくなったミロ法師は唐櫃の陰で窮屈そうに衣紋を脱ぎ始めた。 今朝初めて身に付けたこの衣装は姫君の乳母が、私の御雛様の物ですけれど、と差し出した格式ばった装束だ。

   う〜ん……ずいぶん時代がかって大仰だな

綴れ錦の織り地は厚みがあってどうにも動きにくいのが不本意だが、せっかく持ってきてくれたものを気に入らないからと断れるような立場ではないことはよく心得ている。
姫と乳母から隠れて唐櫃の物陰で黙々と身軽な直衣に着替えていたミロ法師は気が付かないことだったが、姫と乳母は楽しげに目を合わせてこっそりと微笑んでいるのだ。

(姫様、ほんとに楽しみで御座いますね)
(えぇ、なんと愛らしいことでしょう)

ミロ法師には申し訳ないと思うが、姫と乳母は毎日が楽しくて仕方がない。 都に姫は数あれど、こんなに可愛い人と一緒に暮らしている姫はほかにいるはずもない。屋敷の内にかしずかれて暮らす姫にとってはミロ法師はまたとない友達であり宝なのだった。
そんなことはとんと知らぬミロ法師はぴょんと縁側から飛び降りると庭に駆け出した。
「兜よ、兜!俺と相撲せん!」
庭にある楠の大樹に向かってミロ法師が叫ぶや否や ブンブンと羽音を響かせながら黒い何かが大樹の葉陰から飛び出した。 日の光の下、黒々と輝くのは大きな雄のかぶと虫である。
ブゥン、ブゥ〜ン!
「俺だって負けぬぞ!」
ミロ法師が諸肌脱いで、 かぶと虫は角で庭に小さな円を描く 。土俵に見立てた円の中で都でいちばん小さな相撲が始まった。
「ミロ法師、頑張れっっ!」
「かぶと虫も負けるなよ!」
見物客は馴染みになったあの白鳥たちと庭に住む生き物たちだ。
こんなふうに庭の片隅で行われているささやかな相撲にいち早く気付いたのは侍童の貴鬼だった。 鑓水 ( やりみず ) に草の葉を流して遊んでいたのをやめると、
「カミュ様、カミュ様!ミロ法師がかぶと虫と相撲をとっていますよ!」
と広縁に駆け付けて注進した。
「まあ!それは楽しそう!」
貴鬼がさっそく沓脱ぎ石に用意した履物を履いたカミュ姫はミロ法師を応援しようとやってきた。 見ると小さな土俵で熱のこもった熱戦が繰り広げられている最中だ。
「ミロ法師!負けてはなりませぬ!もっと小宇宙を燃やすのです!」
日頃は物静かな姫君が相撲に夢中になって声援を送るのでミロ法師もいっそうの気合いが入り、ついにかぶと虫の角をつかむとえいやっとばかりに投げ飛ばす。 小さな土煙があがり、勝ったミロ法師がどうだとばかりに肩をそびやかすのも姫にはたまらなく誇らしいのだ。
「まあ!よくぞ なさいました!かぶと虫といえば虫の王者。それに勝つとはほんにめでとうございます。」
褒められたのは嬉しいがミロ法師はこれではまだまだ不服である。
「もっと強い敵と闘って勝たなければ一人前の男とは言えぬ。小さい我が身が口惜しい。」
「まあミロ法師……」
いくらミロ法師が願っても、どんなに姫が祈っても、小さく生まれた身体が大きくなるものではない。 この屋敷に来てからというものは、姫のたっての願いで父の大臣に侍の身分に取り立てられ、姫の警護と言えば聞こえはよいが実質の遊び相手となっているのが現状で、それもみんな身体の小さいことが原因であるかと思うとミロ法師は悔しくてならぬ。本人が抱いている望みとは裏腹に、世間では一人前の侍とみなされないだろうことも残念である。
「ご飯をたくさん食べればきっと大きくなれることでしょう。焦らずその日を待ちましょう。もう昼餉の用意が出来ているはず。わたくしと一緒にいただきましょう。」
姫は明るくそう言って、投げ飛ばされたかぶと虫が梢の高いところに逃げ帰っていったのを見届けてから、ミロ法師を懐に抱いて屋敷に戻って行く。
「姫、お先に昼餉を御召し上がりになってください。俺は水で身を清めて参りますので。」
姫の掌からぴょんと飛び降りたミロ法師は、縁先にある手水鉢の縁に立つと袂から一寸にも足らぬ長さの小さな手拭いを取り出して水にひたし、さも気持ち良さそうに顔や首元を拭き出した。 笑ってはならぬとは思うのだが、姫が笑いを抑えることは難しい。せわしなく身体を動かす姿はとてもかわいらしく見えるのである。
「とても身嗜みを気にされるのですね。」
あまりの可愛さに笑い出したい衝動を抑えながら声をかけると、ミロ法師は手拭いを絞りながら当然のように頷いた。
「汗をかいた身体で姫と食事をしてはご無礼ですからね。といって香を焚きこめることもできないし。」
「それならばミロ法師の着物もわたくしの着物と一緒に伏籠 ( ふせご ) にかぶせて香の匂いを焚き込めさせましょう。なんといい考えでしょう!」
「えっ、あのそんな贅沢は…!」
香木というものはたいそう高価で、ほんの小指の先ほどの大きさでも庶民の一家が二、三年は暮らせるほどの品というのはミロ法師も知っている。けれども、それを聞きつけた女房達がさっそく次の間に伏籠を用意して香を焚く用意を始めているではないか。
「カミュ姫様、白檀にしましょうか、それとも伽羅か沈香に?」
「そうねぇ、伽羅にいたしましょう。」
いそいそと用意をする女たちにはミロ法師の遠慮などなんの役にも立たないのだった。