招涼伝  第四十回


そのときだ、今まで黙って聞いておられた宰相様が一歩お進みになられ、太后様に深く礼をなされた。
「畏れながら申し上げます。 今から八代前の王のみぎり、野駆けの帰路に落馬なされた太子の竜体に誰も触ることができず困り果てたことがございます。 このままではお命も危ぶまれるところを、急報をお受けになられた王の御叡慮でお側におられた先々王の外孫に当る男子をその場で御猶子 ( ゆうし = 養子 ) にお取立てあそばされて、そのお方が急ぎ駆けつけ、太子を侍医のもとにお運びなされて事なきを得たことがある由、聞き知っておりまする。 そののち御快癒なされてのちに御猶子の立場からお解きになられ、なんの支障も生じなかったとか。かくの如き先例がありますれば、此度も、それに習うが良策かと。」
これを聞かれた太后様のお目が耀いた。
「ムウ、そなたの四代前の父祖は王弟ではなかったか?」
「はい、しかと左様にございます。」
「ならばなんの困ることもない。 貴鬼はそなたの姉の子ゆえ、我らと同じく王家の血を引く者ぞ。 貴鬼、これへ。」
突然のことに茫然としていると、ムウ様が、
「有り難い御配慮にあらせられる。 謹んでお受けするように。」
と、そっと背中を押してくださった。
聞き間違いでなければ、今宵一夜限りのこととはいえ、畏れ多くも太后様の御猶子となり、昭王様の弟君に等しい身分となるのだ。 たしかに、昭王様を兄君と仰ぐ身分になれば、お身体に触れるのにもなんの差し障りもあるはずがないのだった。
震える足を太后様の御前に進め、深く拝礼すると太后様の玉声が厳かに響いた。
「これよりそちを我が子と成し、等しく恩寵を与うるものとする。この儀、天地神明も御照覧あれ。」
御声がやんだので、恐る恐る顔を上げると、驚いたことに宰相様とムウ様がこちらに向かって深く拝礼なさっておられ、仰天してしまう。
「では、春麗、もう貴鬼を使いに出すことはできぬゆえ、そなた、昭王をこれにお呼びしてまいれ。 理由は申し上げず、急用とだけお伝えするように。」
太后様のお使いを承った春麗さんが、裾を翻して出て行くと、宰相様とムウ様が御前を辞された。 昭王様が一時にせよ天勝宮をお離れになるのは王家の秘事に当るため、立ち会う人数は最少にとどめるものなのだそうだ。
「では貴鬼殿、昭王様をお頼み申し上げます。 ご無事の御帰りを心よりお待ちしております。」
ムウ様にそんな言われ方をするなんて、とても考えられないことで顔が真っ赤になってしまう。 この大事な御使命が無事終わったら一刻も早く御猶子の立場からお解き放ちいただかないと、いても立ってもいられないのだ。

やがて昭王様がおいでになられた。お供をしているのは春麗さんだけで、それもすぐに次の間に下がられた。 昭王様は先ほどと同じく賀宴の正装のままでいらして、ただ礼冠だけは、もうはずしておられる。
こんな夜中に太后様がお呼びになることは今までにあった試しがなく、なにか重大事が起こったかとご案じなされておられるのがもったいなく思われた。
御不審顔の昭王様に、太后様は事をわけて話され、それをお聞きになられた昭王様はどれほどお喜びになられたかしれはしない。
「では、このままカミュに会いに行き、しかも貴鬼が我が弟に?」
お声を弾ませてこちらを振り向かれる昭王様のお顔は久しぶりに耀いて、天勝宮に灯りが再び灯された思いがするのだ。
「この事は内密ゆえ、夜明けにはここに戻ってこねばなりませぬ、貴鬼が迎えに行きますれば、時を違えませぬよう。」
「その儀、しかと。 では、貴鬼、その飛雲の法とやらでカミュの在り処を探ってみてはくれぬか?」
「はいっ!」
右の手で印を結び真言を唱えると、この身は瞬時に薊の東方に飛び、あたりは月の光に照らされた広野なのだった。 あらかじめカミュ様のお進みになられたはずの道筋は分かっているので迷うこともない。 そのあたりにはカミュ様の気が感じられずに虫の声が聞えるばかりだったので、幾度も繰り返して先に飛び、とうとう懐かしい気を探り当てたのは七回目のことだった。 目の前の山沿いの道の少し上のあたりにおいでになることがはっきりとわかり、嬉しさに胸が震えた。 白い月の光が山肌を照らし、まるでカミュ様の白い衣が目の当たりに見えるような気がするのだ。 お昼過ぎにお別れしたばかりなのに、ずいぶん長い間お目にかかっていない気がして、とうとうお目にかかれる嬉しさにドキドキしてしまう。 生い茂った草むらを掻き分けて夢中で山裾の細い道まで進むと、夜露が裾をしとどに濡らし、昭王様をお連れするときには敷物もお持ちしないといけないことに思い当たった。 夜の野原や山のことはなにも知らなかったけれど、敷物があればお困りにはならないに違いない。 とてもいいことを思いついたつもりで自然に笑いがこぼれてしまう。
カミュ様のおいでになる場所をはっきり確かめたところで、わくわくしながら印を結び真言を唱える。 次の瞬間、カミュ様のお姿が目に入り、これほど嬉しかったことはない。 これでとうとう昭王様をカミュ様のところへお連れすることができるのだ。 驚かれるカミュ様へのご挨拶もそこそこに、急いで太后様のお部屋に戻ると、待ちかねた昭王様がぱっとお顔を耀かせられた。
「貴鬼、首尾は如何に?」
口早に仰せられる昭王様に、
「はい、カミュ様にお目にかかれました! すぐにお連れできますっ!」
と申し上げると、昭王様はたいそうお喜びになられ、太后様にもお褒めのお言葉を賜わるのである。
「貴鬼、よういたしました。 では、そこの敷物と酒器、それにこの棗を持ってゆくように。」
えっ?と思って振り向くと、すでに太后様がご用意なされたものがあるではないか。 敷物は思いついていたけれど、御酒のことなど考えもしなかったので、細やかなご配慮に感心してしまうのだ。
昭王様に荷物をお持ちいただくなどとてもできないことなので、左脇に敷物を抱えると、もったいないことには昭王様が酒器と棗の袋を帯に結び付けてくださった。
「あっ、 それは!」
「今宵は我が弟ぞ、遠慮するには及ばぬ。 以前から弟が欲しかったのだ、一夜とはいえ夢が叶ったというものだ。」
忝い仰せに身が震えるけれど、これからじかに昭王様のお手に触れてカミュ様のところへお連れするという大役が控えているのだ。
「では、気をつけてお出かけなさいませ。」
「ご配慮、有り難く頂戴いたします。」
身を起こされた昭王様がお差し出しになられたお手にそっと触れると、握り返してくださるお手の暖かさが身にも心にも沁みてくる。 お仕えしてもうずいぶん経つけれど、尊い御身に触れる日が来るなどとは想像したこともなく、目も眩む思いがするのだ。
「ならば、参ろう。 頼むぞ。」
にこと微笑まれた昭王様のお声が弾み、お喜びのお気持ちがお手を通して伝わってくる。 この日のために叔父上から飛雲の法を伝授していただいたのだと今にしてわかるのだった。
左手は敷物を抱えているので昭王様のお手に触れることなどできはしない。 荷物を持ったままの手で尊いお身体に触れるようなご無礼なことは、あってはならないことなのだ。 そこで、昭王様には、印を結ぶ右手の手首あたりをお持ちいただくことになった。 すると、ちょっと考えられた昭王様は、畏れ多くも後ろにお立ちになると、右のお手で印を結んだ手首に軽くお触れになり、左のお手では肩を抱いてくださるのだった。 思いがけない御扱いに、先ほどとは違った意味で膝ががくがく震えてくるのをこらえるのがやっとなのだ。
「これならよかろう。 では飛雲の法を見せてもらうぞ。」
そう仰せになる昭王様に太后様も楽しげにうち笑まれる。
そして、昭王様にしっかりと肩を抱かれたままで真言を唱え、太后様のお部屋からカミュ様のおそばへと飛んだのだ。

その瞬間、昭王様は小さく 「 あっ!」 とお声を上げられた。 風もなく蒸し暑かったお部屋に比べれば、大きな槐の木の下は爽やかに風が吹きぬけ、さきほど来たときには気付かなかったけれど甘い花の香りでいっぱいなのだった。 初めて飛雲の法でお飛びなされた昭王様がお驚きなされて息をお呑みになっていらっしゃるのがはっきりと感じられ、うまく法を行なえたことがこの上なく嬉しいのだ。
さきほどは横になられていたカミュ様は、よほどに驚かれたのかその場に立っておられ、夜目にも白い後ろ姿の御髪が月の光に耀くばかりなのだった。 おりから吹いてきた風に槐の花が雪のように散り落ちてきて、その美しいことは限りがない。 昭王様もカミュ様のお姿をお認めになられたのか、肩にかかるお手に力がかかる。
「 ほら、こちらにおいでです! カミュ様、昭王様をお連れ申し上げましたよ。」
そう申し上げると、カミュ様がぱっと振り向かれ、お二人はついにお会いなさることができたのだった。

敷物と御酒をご用意し、夜明けのお迎えをお約束して太后様の元へ戻ると、あまりの早さに太后様もたいそうお驚きなされた。
「ご無事にお会いなされました。」
とご様子をお話し申し上げると、太后様もたいそうお喜びなされて 「今宵はここに泊まるように 」 との有り難い御内意を賜わった。
「今宵は我が猶子ゆえ、なんの遠慮も要らぬ。」
と仰せになり、水菓子などくだされる有り難さに身もすくむのだった。

翌朝、日が昇るころにお迎えに参上すると、昨夜と同じく槐の木の下においでの昭王様はたいそう御機嫌麗しく、お隣りにおいでのカミュ様もなんだか赤いお顔をなされておられるようだった。
やはり、昨夜、ご一緒に御酒 ( ごしゅ ) をお飲みになったのがよかったのかもしれない。 お持ちしたのは異国から運ばれてきた葡萄の御酒で、もしかしたらカミュ様は御存知でいらっしゃるかもしれないけれど、白玻璃の盃に注ぐと、透き通った赤紫色がとても綺麗なのだった。
いざ天勝宮に帰るために真言を唱えようとしたとき、昭王様が酒器のことをお思い出しになられて、お言いつけ通りに槐の木の下に取りに行くと、丹塗りの酒壺は空になり、ご存分にお楽しみになられたのだろうと思われた。 白玻璃の盃に落ちていた薄緑の槐の花を払い落として、紅い絹布の袋に入れると、酒壺と一緒に腰に結びつけた。 カミュ様とのお別れに使われた盃なのだから、お形見として大事に持って帰ろうと思ったことだった。




貴鬼が昭王の傍に戻ると、先刻同様、別れの言葉が繰り返された。
心もち腰をかがめたカミュは、貴鬼の肩に手を置いて話しかける。 
「貴鬼、そなたも達者で過ごせ。 我が身に代わり、昭王様によくお仕えするように。」
そう云われた貴鬼は、カミュを仰ぎ見て眩しそうに頷いた。
朝の光の中で上気しているカミュは、貴鬼の目には今までで一番美しくみえたのである。
そして 「 さらばぞ 」 との声を虚空に残して昭王の姿は消え、後には槐の花の香とカミュが残された。
「最後に見せた昭王の動きは、まさに光速。 いかにも聖闘士にふさわしい。」
カミュは微笑した。。
いつか転生して再び相まみえる時が来たら、ともに聖衣を得、闘い、今度こそ同じ地で共に生きるのだ。

河岸まで来たところで、カミュは後ろを振り返った。
二本の槐は互いに枝をさし伸ばし、薄緑の花のせいで全体が柔らかくけぶって見える。 背後の山の濃い緑の中で、それは際立って見えた。 忘れえぬ花下陰の一夜は、そうだ、あの場所であったのだ。 色鮮やかに匂うが如き真摯な記憶が、そこにある。
「連理の枝に比翼の鳥か。 なるほど、悪くない。」
そう云うと、カミュは東へと歩を進めていった。

              ◆

昭王は、あの日、カミュから贈られた玉を 「 招涼玉 」 と名付け、常に身近においていた。
不思議に思った周囲の者が由来を尋ねても、答えることはなかったという。
ただ一人それを知る貴鬼も、誰にも話さなかったものとみえる。

お側去らずの侍僕貴鬼は、長ずるに従い、昭王のよき相談相手となり、常に行動を共にした。
夏の盛りともなると、昭王は貴鬼一人を伴い、東の国境あたりまで赴くのだ。
貴鬼は少しく離れて控えており、昭王は暫しの間政務を忘れて逍遥し、想いに耽るのを常とした。
年月を経た槐は、高さ六、七丈に及ぶものもある。
槐の花は変わることなく芳香を放ち、昭王を昔日にいざなうのである。

燕は、昭王の時代に最も栄え、国威を四方に及ぼした。
もしやすると、それには貴鬼の力も寄与していたやもしれぬ。
昭王とカミュは、こののち逢うことはなく時は過ぎ、その再びの邂逅は、遥か二千三百年の後のことである。




詩ニ云フ

  槐の夭夭たる  其の葉蓁蓁たり         
  夏宵一刻値千金  花に清香あり 月に陰なし    
  葡萄の美酒 夜光の杯  
  飲まんと欲すれば涼風忽ち起こる 
  短夜 何に由りてか徹する  
  歓を為すこと幾何 ( いくばく ) ぞ 

  私 ( ひそか ) に愛す槐林の晩 ( くれ ) 
  夕露 ( せきろ ) 我が衣を霑 ( うるお ) す 
  芳花 誰が為に開く       
  閨中只独り看るならん      

  月を帯び 将に君を送らんとす  
  其れ 子 焉 ( いず ) く に往 ( ゆ ) くや 
  燕州一片の月 渺渺たり予が懐い 
  但 ( た ) だ松風の響きを聞くのみ 

                                           - 完 −

                                                         ⇒  副読本その40