◆ アイザックが離れを訪ねたら  その1


我が師カミュがミロと一緒に北海道の宿に3年以上も長期滞在しているということを氷河から聞いたのはつい昨日のことだ。
「なぜ、そんなに長くっ?」
「北海道は日本の一番北にあり、自らの凍気を常時高めておくのによい気候だ。 俺も常々思うんだがギリシャの気候は俺たち凍気を操る聖闘士にとっては暑すぎる。 あれでは自分を高めることは困難だ。 だから師はアテナに願い出て滞在許可をいただいているのだと思う。」
「しかし、それになぜミロが同行してる?? ミロは凍気系じゃないから北海道にいる必要はないだろうが!」
初めて聞く話に頭にかっと血が昇る。

   よりによって、どうしてミロが先生と3年も一緒なんだ?
   男同士で3年間も同じ部屋に暮らす必要なんてあるのか?
   下宿代を割り勘にしてる貧しい学生じゃないんだぜ、氷河、お前、疑問に思わないのか?!

「師は俺たちをシベリアで訓育してくださったときに、俺たち以外に誰と話すこともなく人間社会から隔絶されたあの厳しい環境の土地で多感な青春の日々を無為に過ごされたのだ。 当時は幼すぎて気がつかなかったが、どれほど寂しく味気ない思いでおられたことか! それを思うとこの氷河、申し訳なさありがたさに涙の滲むのをとどめることはできん! まさに親の愛に匹敵する我が師の恩とはこのことだ! だから、今度こそ師は一人で滞在するのではなく、シベリア時代に親友として度々慰問してくれたミロをともにと誘われたに違いない。 俺はミロが師の気持ちを汲んで、住み慣れた十二宮を長期にわたって留守にしてまで見知らぬ日本にとどまってくれることを感謝しないではいられない。 師が孤独をまぬがれているのはひとえにミロの篤い友情の賜物なのだ! それにミロは俺たちのことも思いやってくれて、訪問のたびに幼い俺たちが喜ぶようにケーキや果物や菓子をあれほどたくさんもってきてくれたことを俺は今でもはっきりと覚えている。 ミロこそ本当に思いやりのある聖闘士の鑑といえる。 アイザック、お前もそう思うだろう!」

まったく氷河って奴は………!

   こいつの純情っぷりは、なにも変わっちゃいない!
   どこの世界に、嫌々3年間も他人の物見遊山に付き合う奴がいる??
   たしかにミロの持ってきてくれたものは美味かったが、今から考えれば俺たちを懐柔する一つの手じゃなかったのか?
   それに、北海道の宿とか言ってたが、どう聞いてみても贅沢三昧の極致じゃないか!
   極致と極地は違うっ!
   そんなのは優雅を極めた大名旅行だ、なんの修行にもなりはしない
   先生はミロの術策にはまっているのだ!
   ミロの奴がついに手練手管で俺の大事な先生のことを………くぅっ、俺にはこれ以上はとても言えんっっ!!

「俺も先日、師をお訪ねし長年のご無礼のお詫びとお礼を申しあげてきた。 お前のことも懐かしくお思いになられていたから、ちょうどいい機会だ。 一度お訪ねしてご無聊 ( ぶりょう ) をお慰めするのがいいと俺は思う。 」
「無聊?」
どこをどうやったら、ミロに一日中くっつかれている先生が無聊をかこっているだろうなんて思い付くんだ?
無聊ってのはなにもすることがなくて退屈なことだと思うが、そんな言葉は五老峰の大滝の前に数百年も座していたという老師の気分を形容するのには向いていても、人格高潔な先生を享楽の淵に引きずり込んで思い通りにしようとするミロと同居していてどこが無聊なんだっっ??
俺の覚えている限り、スコーピオンのミロは人を退屈させるような性格じゃなかったし、ましてや相手が我が師カミュなのだぞ、この世にあんなに美しい人はいない! ああっ、下心満載のミロがいったいなにを………いや、俺にはそんな下賎な想像をすることはできない! 我が師に対して失礼に当たる!
「長年育てていただいた弟子として師を訪問するのは当然の礼儀だ。 師もどんなにお喜びになられることだろう! 幸い、宿の電話番号をお聞きしてある。 さっそくご都合をお伺いしてみよう!」
「えっ、おい、ちょっと…!」

嫌だとも言えないでいるうちに氷河はあっというまに俺の訪問の予定を取り付けて得々としている。  まったくなんて奴だ! 自分がいいことをしたと思っているんだから始末に終えない。
だいいち俺は冷たい海に飲み込まれたあと、いくら助けられたとはいえ聖域に敵対してポセイドンに与したのだぞ! いまさらどの面さげて先生に会えるというのだっ?
それは………それは先生は確かに喜んでくれるかもしれないが、かつて敵対し、今度は蜜月を邪魔しにくるも同然の俺をミロが歓迎してくれる筈もない。 蠍座は独占欲が強いことで有名だし、ミロは世界中の蠍座の中からたった一人黄金聖闘士に選ばれた資質の持ち主なのだ。 本質的独占欲はセブンセンシズの域にまで高まっているんじゃないのか?
きっと、俺たち弟子が独立して邪魔物がいなくなったので思う存分に先生を……っ! ふんっ、気に入らないっ!

こんな気持ちを抱えた俺が北海道は登別の宿にやってきたのは、八月も半ばを過ぎた頃だった。
気温は24度。 今朝までいた東京に比べると10度も低いのだから、たしかに快適だ。 どうせならこんなに緯度の低いところじゃなくてもっと北の稚内とかいうところのほうがより修行には向いているのではないかと思ったが、調べてみると気温は登別と変わらない。 北海道というのは思ったより小さい島らしい。
「アイザック様でいらっしゃいますね、お待ちしておりました。」
宿の玄関先で女の従業員が深々と頭を下げた。 これが、氷河が言っていた美穂という仲居なのだろう。
宿帳に名前を書いていると後ろから肩をぽんと叩かれた。
「よっ! 久しぶりだな、元気でいたか?」
振り返るともちろんそれはミロで、満面に笑みをたたえてる。

   ………あれ? いやに機嫌がいいな……

「お久しぶりです、シベリア時代はお世話になりました。」
「もう一度会えて嬉しいぜ、ほんとに無事でなによりだ! カミュもいつも気にしてた。 海底神殿にいるそうだな、暮らしはどうだ? 食料なんかどうしてるんだ? 魚ばかりじゃ飽きが来るだろう? ここにいる間は美味いものを堪能してくれ。」
ほんとに俺に会ったことを喜んでいるみたいでちょっと拍子抜けしてしまう。
首をかしげているうちにいつの間にか俺の鞄を持ったミロが 「こっちだ。」 と言いながらすたすたと歩いてゆく。
「あら、いけませんわ、ミロ様! お客様にそんなこと!」
「いいから、いいから♪ 今日は俺に持たせてもらう、大事な客だからな。」
慌てた美穂がミロの手から鞄を取り上げようとして、くすくす笑ったミロに制される。
「しかたありませんわね………では、今日だけはミロ様にお任せいたします。 ただ今すぐに離れにお茶をお持ちいたします。」
「ああ、頼んだよ。」
お茶と言われてはっとした俺は、手に持ったものを美穂に手渡した。
「これ、土産のケーキなので適当に切って持ってきてもらえますか? 小さいほうはこちらの皆さんでどうぞ!」
「まあ! ほんとうにありがとうございます! ただ今ご用意させていただきます。」
氷河に持たされたデメルのザッハ・トルテっていうのを手渡すと美穂が真っ赤になって受け取った。
「すまんな、気を使わせる。 さぁ、カミュが首を長くして待ってるぜ! 氷河からここの温泉のことは聞いてるか? え? 聞いてない? よしっ、俺が微に入り細に穿って教えてやろう♪」
どう見ても機嫌の良さそうなミロは、通り過ぎる庭とか草花の説明をしたり、北海道の名物の話をしながら俺のことを上から下まで見て、
「ほんとに大きくなったもんだな! あのころは小さかったんだが、こんなに逞しくなってるとは驚きだ!」
と感心したように言う。
「いえ、そんな! 俺なんか、まだまだ未熟で……!」
どうも調子が狂う。 俺は人の恋路を邪魔する闖入者じゃないのか?
爽やかな夏の風の吹き抜ける回廊を通ってゆくと独立した建物が見えてきた。 これが氷河の言っていた離れというのに違いない。
「おい、アイザックが来たぜ!」
玄関を入ったミロが奥に向って呼びかけた。
「今、行く。」
ドキッとした。 確かに先生の声だ。 どのくらい聞いていなかったろう、懐かしくて嬉しくて胸がどきどきしてしまう。
一気に昔の思い出が押し寄せてきた。 別れたときはまだ子供だったし、先生もまだ若くてとてもきれいな人で………。
「……アイザック!」
奥から出てきた人がいきなり俺を抱き締めた。 ずいぶん背が高くて俺が覚えているよりももっと大人で、でもそれはたしかに俺の先生で!
「先生………っ!」
それ以上なにも言えなかった。 胸がいっぱいで、喉に何かが詰まったようで、あっという間に涙があふれてきた。 先生の腕に抱かれてまるで子供時代に戻ったような気がしている俺の視界の隅に泣き笑いしているミロがちらりと見えた。


                                      
            




                
私的に大好きな青銅訪問記。
                ふと気がつきました、アイザックがいないのは片手落ちではないのか? 
                そこで緑の子の登場です、氷河のときに約束していたザッハ・トルテも持ってきました。
                あまりに長くなったので、まずはここまでに。

                                   ザッハ・トルテ ⇒ こちら