節 分


「おいっ、あれを見てみろ、 鹿が歩いてるぜ! 信じられんっ、なんでこんなところに鹿がいるんだ?」
車の窓から外を見ていたミロが思わず声を上げたのも無理はない。 車道も歩道も舗装された街中をのんびりと鹿が歩いているというのは現実離れした光景ではないか。

今日の奈良は快晴で、風は冷たいものの、光の色はすでに春の気配を漂わせている。。
まずは、世界的に有名な東大寺に行こうと奈良駅からタクシーに乗ったミロとカミュを驚かせたのは、車の通る道沿いをゆっくりと歩いている鹿だった。 奈良駅から5分と走っていないそのあたりは、開けた公園の端に面しているようで、広い芝生が続き、大きな博物館や寺院建築が見え隠れする、およそ野山とはいえない地区なのだ。 道行く人もさして驚くでもなく、鹿にちらと目をやるだけである。
「動物園から逃げ出したのか? それにしては誰も驚いていないのはどういうわけだ?」
「私にもさっぱりわからぬ。」
「おい、あそこには二頭並んで座ってるぜ、うわっ、あっちにもいるっ!!」
車内でミロが興奮しているうちに、車は目的地の 「 大仏前交差点 」 に二人を下ろす。
このあたりはすでに広大な面積を有する奈良公園の一角で、観光客の姿も多くなっている。
「あそこの木の近くにも三頭いるな! そのガイドブックになにか書いていないのか? この街は、鹿と人間の共存モデル地区にでも指定されているのか?」
「ちょっと待ってくれぬか、今、調べている。」
交差点から北に向かって歩きながら、カミュがガイドブックを広げる。
「お前にしては珍しいな、事前調査は確実に済ませておくのがいつものことなのに。」
「お前に言われたくはない。 昨夜、宿に着いてすぐ、奈良のことについて調べようとしたのに、そうさせなかったのはお前ではないのか?」
「あ…そういえば………」
「それに、今朝早く目覚めたので奈良の観光上の留意点をチェックしようとしたときも、お前が私を引き止めた。」
「え……そ、そうだったかな??」
「朝食後のチェックアウトまでの余暇も然りだ。 いったいお前は、はるばる奈良に来てまで……」
「うわっ、こんなにたくさんいるぜっ!」
公園のあちこちに鹿がいるのが目に入ったミロが、思わずカミュの話をさえぎった。
確かに話の風向きを変えようとしたのは事実だが、驚かずにはいられない。 一頭だけ離れて立っている鹿もいれば、五、六頭で観光客に餌らしいものをねだっている鹿もいる。
「ああ、ここに書いてある。」
ガイドブックをめくっていたカミュが立ち止まった。
「この公園の一角に春日大社という大きい寺社があるのだが、そこの主神は常陸の国・鹿島神宮から白い神鹿 ( しんろく ) に乗って飛んでやってきた武甕槌命 ( たけのみかづちのみこと ) という神だ。 奈良の鹿は、その神が乗用していた鹿の子孫ということになる。 8世紀末から約400年続いた平安時代に政権を握った藤原氏という貴族が、京都からこの春日大社まで盛んに詣でて家運の隆盛を祈願したため奈良の鹿を敬うようになったらしい。 藤原貴族が道で鹿に行き会うと、乗っていた乗り物から降りて鹿にお辞儀をしたというぞ。 そのため今でも……」
「あれっ! この鹿、俺たちにお辞儀をしたぜ?! 日本じゃ、人間だけじゃなくて鹿までお辞儀をするのか??」
「うむ、世界でもお辞儀をする動物は、ここ奈良の鹿だけだそうだ。 」
「まったく驚いたな!日本人は礼儀正しいという話は散々聞かされたものだが、鹿までそうだったとは知らなかったぜ!」
しきりとお辞儀を続けている鹿に思わずお辞儀を返してしまい、自分でも笑ってしまうミロである。
「今ではその歴史価値と、野生動物でありながら人に馴れて市街地近くに暮らす独特の生態から日本の天然記念物に指定されてもいる。 だからここは動物園ではないので、鹿は自由に歩き回り、市街地にも姿を現わすこともある。 たしかにきわめて珍しいといえるだろう。」
「ふうん、まったく知らなかったな!」
感心ばかりしていたミロが、観光客の手にしている薄い円形の、鹿にやるらしい餌に気がついたのはそのときだ。
「あれって、鹿専用の餌じゃないのか? みんな持ってるぜ。 ああ、あそこで売ってる。」
芝生に簡単な台を置いて 「 鹿せんべい 」 を売っている女性からさっそく一包み買ってきたミロが、半分をカミュに手渡した。
「手早いな。」
「ああ、俺は即断即決なんだよ。 しかし、10枚で150円というのは、高いのか安いのかさっぱりわからんな。」
カミュの方を見ていたミロの手から、鹿がせんべいを食べたのはそのときだ。
「わっっ! た、食べられたぜっ!手も舐められたっ!」
カミュの手にも数頭の鹿が寄ってきて、急いで差し出すと、あっという間にせんべいは鹿の胃に納まった。
「ふうん、素早いな! 油断も隙もならん。」
「鹿も生活がかかっているからな。 ちなみにこの公園の芝生は、鹿が始終食べているので、芝刈りの必要がないというぞ。」
話しながら、なんとなく観光客の歩いてゆく方向に足を向ける。
今日の奈良は気温10度ほどで、この季節にしてはまあまあの暖かさなのだ。 公園の奥の方には、なにやら白い花の咲いている木もあるらしい。 やがて道はゆるい上り坂となり、同じ方向に行く人の数も増えてきた。
「ずいぶん人が多いが、なにかあるのかな?」
「なにかイベントがあるのかもしれぬ。 誰かのせいで事前学習ができなかったのは、本当に困る。」
「ああ、悪かったよ、でもお前だってあのとき……」
「あ、ここに書いてある!」
ミロの声をわざとさえぎるようにカミュが声を上げた。
「今日、2月3日は 『節分 』 といい、翌2月4日は 『 立春 』 といって暦の上での春の始まりの日なのだ。 節分とは、季節の分かれ目の意味で、元々は 「立春 」 「立夏」 「立秋」 「立冬」 のそれぞれの前日をさしていた。 節分が特に立春の前日をさすようになった由来は、冬から春になる時期を一年の境とし、現在の大晦日と同じように考えられていたためらしい。」
「ふうん、そういえば日本人は大晦日もにぎやかに祝っていたな。」
日本人は新年こそ祝うが、別に大晦日を祝いはしない。 しかし、除夜の鐘の賑わいを見たミロには、すべて祝い事に見えるのも無理はないのだ。
「で、節分の夜には豆まきをする。」
「豆まきとは、なんだ?」
「疫病などをもたらす悪い鬼を追い払う儀式で、炒った大豆等を撒いて、邪気をはらうのだそうだ。 今日これから、この先にある二月堂で恒例の豆まきが行なわれるらしい。」
「じゃあ、この辺を歩いている日本人はそれ目当てってわけか、やっと目的ができたな。」
「それというのも、みんなお前が私の事前学習を……」
「カミュ……お前にしては妙に絡んでくるな?」
「なにしろ節分だからな、この一年の清算をしたほうがよかろう。」
そんなことを話しながら歩いてゆくと、行く手の斜面に大きな木造の建物が見えてきた。
「あれが二月堂といって、豆まきの行なわれる場所だろう。」
「二月堂って……どうして月の名前がついてるんだ?」
「それは……ああ、ここだ。 この建物で西暦752年から一度も絶えることなく続けられている修二会 ( しゅにえ ) という仏教の行事があり、現在では三月一日より二週間にわたって行われているが、もとは旧暦の二月一日から行われていたので、二月堂の名もそれに由来しているのだそうだ。 なお、三月堂というのも近くにあり、こちらのネーミングは、旧暦三月に法華会が開かれることからきているようだ。」
「ふうん、単純というか素直というか……俺たちの十二宮がそんなネーミングでなくてよかったぜ。 六月宮だの十月宮だのじゃ、ちょっとつまらんからな。」

   とくにカミュの宝瓶宮、この名前の美しいことといったらどうだ!
   なんといっても、
宝の水瓶だぜ
   名は体 ( たい ) を現わすというが、まさにカミュそのものだな、
   目で見ても、耳で聴いても美しいことこの上ない!

「なにを笑っている?」
「え? なんてこともない、十二宮のネーミングについてだ。 数字じゃなくてよかったと思ってさ。」
「うむ、自分でも宝瓶宮は気に入っているし、お前の天蠍宮もじつによいと思う。 しかし……」
「しかしって、なんだ?」
「6番目の宮については、ちょっと……あれが私の宮だったら、とても口には出せぬところだ。」
ふと見ると、カミュが頬を染めている。

   6番目っていうと……シャカの処女宮じゃないか。
   そう言われてみれば、確かにちょっと恥ずかしいかもな。
   悟りをひらいているシャカだから平然としているが、俺もどっちかというと嫌かもしれん。
   シャカだからなんとか通用しているが、宮主が老師やアルデバランだったら、不釣合いじゃないのか??

それぞれに考え事をしていると、ようやく豆まきが始まった。
二月堂の高い舞台から下の芝生の斜面に向かって次々に豆が撒かれ、待ち受けているたくさんの人々が歓声を上げる。
豆だけでなく鈴も混ざっているようで、その音も華やかに響くのだ。
「ほう! にぎやかなものだな。」
ふたりして眺めていると、カミュの足元に鈴が転がってきた。 青い色糸のつけられた鈴がさっそくミロの手におさまる。
「いいものを手に入れたぜ。」
「奈良の記念にちょうどよいな。 旧年の厄払いになるのやもしれぬ。」

   それだけじゃ終わらせないぜ、俺は!
   この鈴には、もう少し役立ってもらおうじゃないか

にこにこしながら鈴をポケットに入れたミロである。

その後、ゆっくりと公園を散策していると早くも薄暮の頃合となってきた。
すると、あちこちの石灯篭に灯りが灯り始めたではないか。
「あれっ、これはきれいだな!100以上あるんじゃないのか?」
「どうやら節分の日だけの特別なサービスらしい。 運がよかったではないか。」
「なんといっても日頃の行いがいいからな。」
「それは知らぬが、例の神鹿のいる春日大社で6時から 『 節分万燈籠 』 というのが行なわれる。」
「またわからないのが出てきたな。 それはいったいどんなものなんだ?」
「春日大社の境内に3000に及ぶ燈籠があり、これは800年前の藤原氏から始まって一般の国民により奉納されたもののようだ。 その燈籠全てに灯が灯されるようだというから、かなり幻想的な眺めになるのではないのだろうか?」
「なにっ、3000だと!」
「うむ、仮に50人で手分けすると一人が60個の燈籠に灯を……」
「そんな計算はあとでゆっくりやればいいんだよ。 これを見逃す手はないぜ、ぜひ見ようじゃないか。」

地図を広げるまでもなく、そのあたりの人の流れについていくだけでミロとカミュは春日大社に着くことができた。 すでにたくさんの人が境内で待っており、カメラを用意しているものも数多い。
やがてあちらこちらで燈籠に灯が入れられてゆくと、ほぅ、という溜め息がそこここで漏れる。
あたりは初春のこととてすでに日は落ちており、吊るされた燈籠に顔を寄せて眺める人の顔が仄かに灯りの色に照らされている。
「どうだ、なんと素晴らしい眺めじゃないか!」
「ああ、なんと美しいのだろう………自然の灯りが人の心の中までやわらかく照らしているようだ。」
話す声もおのずからひそめられて、人々とともに次々と燈籠を巡っているうちに二人の指先が絡み合う。 裏手のほうは人少なで、静けさの中に燈籠の明かりだけが列を成していた。
「カミュ……来てよかったな」
「ああ、とてもよいものを見た……」
仄かな明かりに照らされた白い頬が美しく染まり、ミロを瞠目させる。
「今夜からは、お前が俺の神鹿だ……いつまでも大切にしよう……」
姿勢を正したミロに丁寧にお辞儀をされて一瞬とまどったカミュだが、すぐに真面目な表情でお辞儀を返す。
「では、私は天然記念物ということか?」
「ああ、そうだ、俺の宝、世界一の至宝だ。」
数え切れぬ燈籠の灯の中でうつむいた頬の色がいっそう濃くなったように見える。
そっと引き寄せられたとき、花の香りがしたようだ。
「花の香が………」
「ん? ……ああ、その木に少し白い花が咲いている。 きっとその花の匂いじゃないのか。」
「とてもよい香りだ………すがすがしくて清廉で……」
「きっと春を告げる花だろう、カミュ……お前によく似合うぜ、冴えた高雅な香りだ。」
「また、そんなことを……」
そのとき、表側から人々のざわめきが近づいてきた。
「そろそろ戻るとするか。」
名残惜しげに肩を離して歩き出したミロが、無意識にポケットに手を入れて、おや?という顔をした。
ポケットを探った手に小さな鈴が触れたのだ。

   そうか、さっきの豆まきの……

ちりんと鳴った鈴の音は、しかしカミュには聞こえなかったに違いない。
離れてゆく二人を早咲きの白梅が見送っていた。

               


                             節分の夜にニュースで見た万燈籠。
                             こんな美しいものをお二人に見せないなんてもったいない!
                             こんなときのために 「 東方見聞録 」 があるのです。

                             奈良公園が大好きです。
                             1年か2年のときに京都からバス遠足で行って、
                             岐阜の時には修学旅行で行きました。
                             大人になってからも何回か行きましたが、そのたびに嬉しくて嬉しくて。
                             なんといっても鹿が可愛いです、こんな公園、ここだけです。
                             鹿がお辞儀をするのは、餌をねだっているからだという説もありますが。

                             東大寺の、現代では考えられない寺域の広さも爽快ですね、
                             京都とは違う時間の流れが奈良にはあるのです。



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