カジカ

「あれ? なんの鳴き声だろう?」
「ああ、あれがカジカの声だ。 初めて聴いたのでは知らぬのも無理はない。」
「カジカ? ほう!ずいぶんときれいじゃないか♪」
「うむ、カジカは本州・四国・九州に分布し、山地の渓流や、湖とその周辺の川原、森林に生息している。 繁殖期は4月
 から8月で、地味な体色とは対照的に声がたいへん美しいので有名だ。 古来からその声を鑑賞されてもいる。」
カミュと一緒に渓流沿いの道を散策していたミロは、初めて聴くカジカの声に感心せずにはいられない。
透き通るような声が美しくあたりに響き、流れの水音とあいまっていかにも風雅な思いがするではないか。
夕暮れの風は少し冷たいが、それがかえって、このあとの温泉の愉しみを倍化するようにも思われる。

   清流にきれいな鳥の声に、そしてカミュと散策とくればもうなにも言うことはないな♪
   空気もいいし景色もいいし、いや、一番きれいなのは俺のカミュだが。
   これから宿に戻れば温泉とうまい食事とふっくらしたフトンが待ってるんだからな、いや、贅沢贅沢♪♪

今日の二人は群馬県の草津温泉に来ている。
テレビで例の温泉紹介番組を見ていたミロが、どうしても行きたくなってカミュを連れてやってきたのだ。
「ちょっと川岸に降りてみようぜ。 ふうん、飲んでもよさそうなほど透き通ってる!」
水の流れはかなり早く、手を入れてみると相当に冷たい。
「あれっ? ここの石の陰に蟹がいるぜ♪」
カミュに教えようと振り返ると、
「ああ、ちょうどよかった、ここにいた!」
カミュがミロと同じく蟹を見つけたらしく、すっと手を伸ばして手の中につかまえたのが見えた。
「素早いな。 まあ、俺たちが蟹ごときに遅れを取るはずもないが。」
「いや、蟹ではない。 カジカを見つけたのだ。」
「……え? なんで、石の陰にカジカが??」
差し出されたカミュの白い手に乗っているものを見たときのミロの驚きは、とても描写しつくせるものではないのだ。
「なっ、なにぃ〜〜〜〜っっ!!!!」
褐色の5cmほどの小さな蛙が、ミロの至高の恋人、もっとも愛してやまぬアクエリアスのカミュの美しい手のひらに鎮座していたではなかったか!
「カ、カミュ!! お前、いったいなにをっっ?? よせっ、触るなっ、お前の手が穢れるっっ!!」
「なにを騒いでいるのだ?お前に見せてやろうと思って、カジカを捕まえたのだぞ。」
「なにっ、これがカジカだと?? 鳥じゃないのかっっ??!!」
「誰が鳥だと言ったのだ? カジカはアオガエル科に属しており、雄は水から出た岩の上に縄張りを持ち、盛んに鳴いて
 雌を呼ぶ。 さっきから我々が聴いているのは、その声だ。 川岸の石の下に一匹の雌の個体が500個ほど産卵する。
 指の吸盤が発達しており…」
しかし、冷静に解説するカミュの声など、ミロの耳に入るはずもない。
「いいからそいつを放せっっ!こ、こともあろうに、どうしてお前が蛙なんぞを持たねばならんのだっ!」
「え……?」
はっと気がついたカミュが見たミロは、究極まで小宇宙を増大させ、いまにもアンタレスまで撃ち込まんばかりに見えるではないか!
「いったいどうしたのだ? こんなところでなぜ臨戦態勢に……」
「カミュ……いいから、そいつを、手から離せっっ!」
まなじりを決して一語一語区切って言うところは、とてもいつものミロとは思えない。 さすがのカミュも、ここは理由を訊いている場合ではないと悟ったらしく、きょとんとしているカジカを水際に落としてやった。
「よしっ、さあ、すぐ宿に帰って手を洗おうっ! いいか、その手で俺に触るなよ!」
もう一方の手をつかんだミロは、ずんずんとすごい勢いで歩いていき、カミュにはなにがなんだか分からないのだ。

「ミロ、あのカジカには毒などないのだぞ、なにか勘違いしているのではないか?」
「カミュ……俺はともかく蛙が嫌いなんだ、理由は説明したくないが、とにかくこの地球上の生物の中で一番嫌いだ!
 一番大事なお前が一番嫌いな蛙を手に乗せるなど、とても見ていられん、俺は嫌だ!」
「ミロ、私にはなんのことやらさっぱりわからないが………」
渓流沿いから離れた小道は林の中へと入り、カジカの声も遠くになったそのあたりには人影もない。
カミュの手をつかんだまま黙りこくって歩いていたミロが、不意に立ち止まった。
「カミュ……俺はほんとうにお前が大事で……好きで好きでたまらない……」
押し殺した声が震えているようで、カミュは耳をそばだてる。
「大事にするから……きっとお前を守ってやるから……」
カミュの手を離して呟くように言ったミロの真摯なまなざしが、カミュをどきりとさせた。
「だから……俺から離れるな……俺のカミュ…俺の命……」
いつの間にか背中に回された手にカミュが気付いたときには、唇が重ねられている。
「ミロ………」
なにか事情があるらしいのだが、今は訊いても話してくれぬだろうことはカミュにもわかる。
「では……思う存分、守ってもらおうか……私の大事なミロ……」
やさしい口付けが返されていった。

黄昏の光も色を失いかけて、宿へと向かう道筋は夕闇が濃い。
「すまなかった……さっきは取り乱した……」
「気にすることはない。 誰しもそんな時はあるものだ。 それにしても……」
「……なに?」
「いや、なんでもない。」

   ミロは、どうして蛙があんなに嫌いなのだろう?
   乾燥した聖域にも、極寒のシベリアにも蛙は生息していないので、そんなことは考えもしなかったが……
   まあよい、そのうちに教えてくれるやもしれぬ

その後、ミロが蛙のことを口にすることはなかったし、カミュも訊くことをしなかった。
ただ、カジカの美声だけは二人の心に残ったのだった。





              カジカガエルは美声で知られています、声を聞きたい方は こちら。
              カジカという川魚もいますが、それはまた別物です。

              ハーデス篇をご存知ない方のために、少々詳しい追記を書きました。  ⇒