しかし、中止になってくれという願いはかなわなかった。
なぜかは知らないが、最終査察の日時は、ついに先日の日本GPが終わった翌日の10月11日となり、その前日まで突貫工事で路面の舗装を行なった韓国霊岩サーキットは査察に合格したのだ。ドライバーたちは舗装して十日ほどしかたっていない出来立てのコースを時速300キロ近くで走らなければならない。
「おいっ、とんでもないことになったな!生きて還れるのか?俺はF1にはずぶの素人だが、あまりに不安すぎる!」
「私もだ。素人の常識でも有り得ないし、筋金入りのファンも等しく不安視している。」
不安視なんてもんじゃない。俺が見たネット上の意見は、ドライバーの命が大切だから中止してくれ!という悲鳴であふれていたのだ。
「どうしましょう、ミロ様、カミュ様!このままではとても心配ですわ、もしもクラッシュして誰かが……」
離れに茶を運んできた美穂も恐ろしくてその先は言えないらしい。
それはそうだろう、ここに泊まって楽しくスキーをしたヤルノとナノに不慮の事故が降りかかるかも…と思うと俺だって浮き足立つ。
F1ドライバーに危険はつき物といったって、ものには限度というものがる。安全性の保証されたコースを走るとわかっているから限界に挑戦するということにも頷けるのであって、最初から油分の浮いた危険なコースだとわかっているのでは、けっして杞憂とか可能性があるとかの悠長な事態ではない。
「日本GPは問題なかったが、今度は怪しいぜ!なんとかしたほうがいいんじゃないのか?クラッシュして現地スタッフによる救出が間に合いそうにないときは助けたい。人の命がかかってる。」
「私もそう思っていた。」
俺たちの意図を察知した美穂が 
「どうぞお願い致します」 
と頭を下げた。 

チケットは問題ない。客の入りを心配した興行主側があちこちで無料で配ったらしく、あっという間に入手できた。
交通手段はむろんテレポートだ。これは、費用とか手間の問題ではなく、無用の遅滞を避けるためだ。目指す霊岩サーキットは交通の不便なところにあり、現地に通じる道路は一本だけなので大幅な渋滞が予想されるのだ。もたついている間にマシンがスタートして事故があったらおしまいだ。それに宿泊設備もお話にならないほどのものしかないという。とてもカミュを泊まらせることのできるレベルではないのだった。
このことを予期して事前にテレポートのポイントを決めておいたので三日間行なわれるレースの初日から会場に待機することにした。
「ふうん……噂通りの出来っぷりだな!」
「出来というより不出来っぷりだ。」
「はっきり言うなよ、っていうか、こいつは言わずにはいられないな。」
ネット上で毎日のように現地の写真がアップされていたので驚くこともないのだが、これはやっぱり驚くだろう。
メインスタンドこそ完成しているようだが、仮設スタンドはまだ建設中で、あちこちで座席の取り付けが行なわれているのが見える。一見出来上がっているように見えても立ち入りを規制する黄色いロープが張られているし、工事関係者の姿も散見できた。全体的に埃っぽい気がする。俺のカミュが汚れるだろうが!
「ヤルノとナノには、レースを見に行くってメールしといたけど、パドックには行かないって言ってある。きっとこのレースには特に神経使ってるだろうし、テンション高いはずだから邪魔しちゃまずいし。」
「それがよかろう。じっと様子を見ていればよい。」
言い遅れたが俺たちはヤルノとナノからVIP専用のパドックパスをもらってる。日本GPではそれを使ってヤルノとナノを表敬訪問し、おおいに歓迎された。
ここで用語解説をしたほうがいいだろう。F1に関心がなければ知らなくて当然だ。
マシンのタイヤ交換、給油、緊急修理などを行なう場所がピットで、その裏側にあるのがパドック、いずれも関係者以外は立ち入り禁止のエリアだ。各チームのパドックはチームカラーを基調にした洒落た作りで、常に活気に満ち溢れ、ミーティングや取材、食事などもできて一種の社交場のような性格もある。二階席からはレースも観覧できて贅沢なことこの上ない。パドックに入るというのはファンにとっては手の届かない高嶺の花、垂涎の的であるらしい。
そんなことを俺たちに教えてくれたのは美穂だ。
「でも残念ですけれど、普通の人はパドックには入れないんですのよ。」
「ええと、俺たちは入れるみたいだよ。たしかパドックパスって言うのをもらってるから。」
「まぁぁぁっ!…お二人ともパドックパスをお持ちなんですの??あらぁぁ…!どうか見るだけでいいですので拝ませてくださいませ!んまぁぁ!これがアロンソ様のフェラーリので、こちらがトゥルーリ様のロータスのですか!!それもVIP!二枚もお持ちなんて、夢みたい!」
気楽に美穂に話したらものすごく感心された。 出して見せると、ほんとに拝まれたのには驚いた。もしかして俺たちが黄金聖闘士だということよりも、VIPパスを持ってることのほうが尊重されてるんじゃないのか??
これって、アテナ神殿に入る許可証みたいなものかな?いや、比べちゃ、まずいのか?

初日、金曜日の客の入りはメインスタンド以外はパラパラで、お世辞にも盛況とは言いがたい。韓国ではモータースポーツは根付いてないらしいので、これはあらかじめ予想していたことだ。
サーキットは広く、どこにいても全体を見通すことは不可能だ。そのため手元に端末を置いて、中継を見ながらの観戦となる。
「目の前でクラッシュしたらすぐに行けるが、見えないところだとまずいな。」
「そのためにこのコースのレイアウトや各コーナーの配置はあらかじめ学習してある。非常時にはすぐに駆けつけよう。」
「なにもないことを祈るよ。」
学習とはいうものの、先行して発売されたPS3のゲーム 「F1 2010」 はよく出来ていて、まだ未完成の霊岩サーキットもゲームの中では完成しているという優れものだ。これで事前学習しておけば、万が一の事態にも迅速な対応が出来るだろう。これでコースのドライビングをシミュレーションしてから現地入りしたドライバーが多かったというのは事実らしい。

そうしてレースは始まった。初日の金曜日には午前と午後に一回ずつのフリー走行。 翌土曜日の午前には三回目のフリー走行、午後に予選。この予選のタイムで決勝のスタート順が決まる大事なものだ。フリー走行とは実際のコースを走りマシンの調整やタイヤの評価をするための練習で、そのコースを初めて走るドライバーにはこの3回だけの練習が極めて重要だ。
「もっともこのサーキットは出来たてゆえ、全員が初見だが。」
「というより出来てないぜ、完成には程遠い。だから俺たちが来てるんだよ。」
縁石や側壁にもいろいろ問題が出ているようだが、なんといっても舗装したての路面が気になる、というより恐ろしい。俺の眼から見ても油が浮いているように見えるのは気のせいか?
そんな不安をはらんだままで始まったフリー走行は、最初こそ各車様子見だったが徐々ににスピードを上げてきた。甲高い轟音が響き渡り、目の前の道を赤や緑や青のマシンが凄まじいスピードで駆け抜けてゆく。
手元の端末画面ではあちこちのコーナーや直線でスピンして端に停まるマシンが映し出され、ドキドキすることおびただしい。たいていはすぐに走り出すが、中には車体を損傷してリタイアするケースもある。
おいおい、コーナーの凹凸でバウンドするっていうのは有りか?
「うわっ、ヤルノのギアボックスが壊れたそうだ!で、ギアボックスって?」
「そんなことを訊かれても私にもわからぬっ!」
中継を聴いているだけではわからないことも多い。今年のF1を第2戦から真剣に観戦してきて、この韓国戦で16回目だが、俺たちの知識はまだひよっ子だ。運転が出来ればまだしも、免許がないのはF1観戦にはかなりハンディが大きいといえる。ステアリングというかなり一般的な言葉だって、最初は何のことだかわからなかった。

こんなふうにして午前中のフリー走行をドキドキしながら見守り、昼食を食べに戻ると待ちかねた美穂から根掘り葉掘りと感想を求められた。
「…ま!そうですの!やっぱり!あらまあ!午後もよろしくお願い致しますね。」
午後にはひざ掛けと暖かい飲み物の入ったボトルを持たされて送り出された。
フリー走行も二回目になると、できたての路面もだんだん落ち着いてきたらしくさらにスピードが上がってきた。
「大丈夫かな?普通のレースならもっと楽しめるのにドキドキものだよ。正直言って、目の前で激突されたら助けようがないからな。」
「ドライバーの腕にまかせるしかあるまい。あとは神頼みだ。」
「う〜〜〜ん、取り返しのつかないことになったら美穂に言い訳が出来ないぜ。」
むろん、なにかあってもそれは俺たちのせいでは金輪際ない。無理なレースを開催するほうが悪いのだ。
芝生を十分に張る暇がなかったので、コーナーによってはすごい砂埃が上がってる。コーナーぎりぎりをつく走りをすると、どうしても路面を外れてタイヤが砂を巻き上げる。そのためコーナー内側の路面は汚れるし、後続のマシンは真っ白い砂煙の中に突っ込むし、素人目にも危険極まりない。
パリ・ダカじゃないんだから、本来ならそんなことは有り得ない。そんなことは俺にだってわかる。帰ったら美穂にさんざん文句を言われそうだ。コース上の砂なんて、俺のせいじゃないんだが。

そして翌日、3回目のフリー走行ではますます慣れてきたドライバーがスピードを出し始め、一周のラップタイムが次々と更新されてゆく。ひっきりなしに実況が伝える数字は昨日のものより早くて、これがF1レーサーの実力かと舌を巻く。
「昨日は一周するのに1分45秒ほどかかかってたのに、今日は1分40秒を切り始めたと思ったら、もう38秒台だし、この分だと37秒台も出るだろう。ほんとに凄い世界だな、一つ間違ったら死ぬんだぜ。」
「聖闘士とは違う危険がある。私には向かない。」
「お前がやるって言ったら、全力で阻止させてもらう。」
「やらないから安心してくれていい。」
そして午後の予選はナノが3位、ヤルノは19位になった。これが明日の決勝のスタート順ということだ。
「ナノは狙えるな。いい位置だよ。」
「中継にナノ本人のコメントが入った。 
ポールは逃したけど、汚れた側からのスタートはとても難しいと思うので、2番手よりむしろ3番手で良かったと思う。 だそうだ。路面に埃や土の汚れがあると、スタート時の加速が思うように行かず順位を落とすからだろう。」
ポールとは、ポールポジション、すなわち決勝スタート時の位置がいちばん前のことを指す。メインスタンド前のマシンが並ぶ位置は奇数列と偶数列に分かれており、このサーキットでは偶数列のほうが汚れているようだ。
「ただし明日は天気が悪い。台風が接近しており、降雨の可能性が高い。」
「そいつはまずいな。このできたての舗装で雨が降るとどうなるんだ?やっぱり滑りやすいのか?昨日も今日も滑ってるけど。」
スケートとは違うが、やたらにスピンするマシンが多いのはもはや知れ渡っている。順位が下がるだけならまだいいが、そこに後続車が突っ込んだら大惨事だ。
「雨と油分が混ざったらつるつるになるという意見もあるし、いっそのこと大雨になって中止になったほうが安全だという声もある。あるいは、雨の中をそろそろと安全速度で行ったほうが怪我人が出ないとか。天候のことについては様子を見るしかあるまい。」
「死傷者が出なければ御 (おん) の字だよ、ほかには何も望まない。」
ほんとにそう思う。ナノは現在206ポイントで、年間チャンピオンの座を狙える位置につけてるが命のほうが大事に決まってる。
しかし、仕事に命をかけるっていうのはそれをするに値する経験と実力を持っているものだけに許される、とナノが言っていたことを思い出し、経験も実力も折り紙つきのナノがこの悪条件のレースを何とかしてものにしようと考えることは容易に予想された。
「晴れでも雨でも、ともかく無事に過ぎてくれればそれでいい。」
深刻な表情のカミュとともにサーキットをあとにした。