土用丑の日

台風一過の東京は、暑さが厳しい。
「昼は鰻か、いいね♪」
湯島聖堂横の道を下って左へ折れると、黒板塀に囲まれた古い日本家屋が見えてきた。
「ここが神田明神下の 『 神田川本店 』 だ。 さすが土用丑の日は混んでいるな。」
「え? 今日は木曜日だぜ?」
「その土曜ではない。 土用というのは土旺用事の略で、土旺には 『 土の気配の旺盛な時期 』 という意味がある。 そして、その土旺を事に用いるので、土旺用事。それを略して土用となる。」
「……え?…え?? 土がどうしたって?」
下足番の老人に靴を預けて二階へと上りながらミロが訊き返すのも無理はない。 これを聞いて一度でわかるほうが不自然だ。
通された座敷は床の間付きの八畳間で、古い造りがなんともいえず落ち着くのだ。 日本滞在もここまで長くなると、見る目も肥えてくる。
「古代中国で成立した陰陽五行説では、この世界を形成する万物は 「火」 「水」 「木」 「金」 「土」の五つの要素から成ると考えられている。 それを四季に当てはめると 「土」が残ってしまい、はなはだよろしくない。 そこで、四立 (立春、立夏、立秋、立冬) の各々の前の 18〜9日間を土用として、陰陽五行説に当てはめたのだ。 」
「ふうん♪ この世界のすべてを五つのどれかに当てはめるとすると、さしずめ、俺は 「火」 で、お前は 「水」 だな! うん、非常に納得できる説だ、気に入ったね♪」
「……まあ、それはそれでよかろう。 本来は四季それぞれに土用があるのだが、現在では夏の土用だけが知られており、その中でも丑の日が鰻を食べるのに良いとされている。 そこで、日本中で、一斉に鰻が食される日なのだそうだ。」
「その丑の日っていうのはなんだ?」
「十二支というものがあり、十二種類の動物を年に当てはめることが広く行なわれているが、この考えは方角・時刻・日にも及んでいる。 そして、夏の土用の期間中の丑の日に鰻を食べるので、土用丑の日となる。」
「やっぱりよくわからんな? 丑の日に食べるなら、牛肉じゃないのか?」
「明治以前の日本では肉食が禁じられていたため、牛を食べることができぬ。 そこで替わりに 「 う 」 のつくものとして鰻が選ばれたのかもしれぬ。 」
「ふうん、それで鰻の登場か。 まあ、難しいことはいいだろう。 おっ、鰻が来たぜ♪」
ミロが目を耀かせた。

「まことにけっこうな鰻で、なにも言うことはないな。」
「まったくだ、これこそ天下一品の鰻ってやつだな♪ 」
床柱に背をもたせかけ、足を伸ばしたミロは実に満足そうである。
「なるほどね、これが典型的日本人の正しい食生活なんだな♪ ………あれ? 丑の日に 「 う 」 のつく鰻はわかったが、そもそもなんで夏の土用に食べなきゃいかんのだ? ほかの季節の土用は無視されたのか?」
「日本の夏はたいそう暑いので、夏ばてを予防し、精をつけるために栄養のある鰻を食べるようにしたのだろう。」
「ふうん………夏ばてはわかるが、その、精ってのはなんだ?」
「……え?」
「お前は日本語に詳しいだろうが、俺は言語学者じゃないからな。 精って何のことだ?」
「そ、それは……精神力のことだ。 暑い夏に負けぬように、精神を鍛えて大和魂を奮い起こすのだろうと思う。」
「ふうん……鰻を食べると精神が鍛えられるのか?」
「そ、そうだと思う……」
「なぜ?」
「なぜって………さぁ……?」
「なんだ、根拠がないのか? お前らしくないな!」
ミロに不審そうに見られたカミュが赤くなり、それを意識すればするほどその色は濃くならざるを得ないのだ。
「お前………飲まなかったよな?」
「…………」
「なにか俺に隠してないか?」
「な、なにを……」
ここまでくるとカミュはミロをまっすぐに見ることなど、とてもできぬのだ。
「………まあいい、今夜ゆっくり聞かせてもらおうか♪」
「わ、私はなにも…」
「隠してないとは言わせんぜ♪ さて、そろそろ行くか、次は神田明神だ。」
「え? なぜ神田明神に?」
「決まってる、今夜の首尾を祈願するのさ。 神田明神に祭られている神は、大黒・えびす・平将門だ。 このうち大黒は夫婦和合、縁結びの神として有名だからな、俺たちのことを祈願して当然だろう♪」

   夫婦和合って………ミロ……

すらっと言ってのけて階段を下りるミロが妙にまぶしく見えるのだ。 なにもかも白状させられる自分を予感しながら、カミュもあとを追う。
夏の日差しがいっそう強くなってきた土用の午後である。





                      皆さま、今日は鰻を召し上がられましたか?
                          ミロ様でなくても、鰻はおいしいっっ♪♪
                          「神田川」 、6000円くらいはかかりそうですが、一度はいきたい名店です。
                          ええ、実は私はまだなんですが、家族が何度も経験済みなのでよかろうと。

                          カミュ様、ちょっと考えすぎでしたね、
                          お白州に引き出されて、あっさり白状させられるのが目に見えてます…。
                          「この桜吹雪が目に入らぬか!」

                       
                 ⇒  (続篇・黄表紙風味)