峩 峩 温 泉 (ががおんせん)・到 着 篇 |
「峩峩温泉って妙な名前だな。 峩峩っていう地名は相当珍しいと思うが。」 「いや、峩峩は地名ではない。 温泉の周囲がかなり急峻な岩山になっており、その様子をあらわしたものだ。 峩は峨と同字で、山が高く険しい様を表す。 峩峩は文語の形容動詞で、山脈峩峩として連なる、などと活用される。」 「サ変の活用なんかを覚えているのにも感心したが、どうして峩峩なんて言葉まで知ってるんだ?」 「日本ではサガの名を嵯峨と表記することが多いので、漢字の意味を調べていたら峩に行き着いたのだ。 ちなみに嵯は、山が険しいさま、高低があってふぞろいなさま、を表す。」 「サガの意味なんか調べるなよ………なんか気になる………まさか、お前……同人誌を読んでるんじゃあるまいな?」 「落窪に嵯峨帝が出てきたから興味を持ったのだが、なにか問題が?」 「あ〜、落窪か♪ いや、けっこうだね! なんら問題はない♪」 「さらにシュラの名も修羅と表記されることがあるので調べてみたが、こちらは仏教に由来しており…」 「せっかくだがもういい。 シャカの顔が浮かんできて、なんだか説教されてる気分になってきた。 それより、ほら!」 苦笑いしたミロが指差したのは谷底の川沿いの一群の建物だ。 「あれが峩峩温泉だろう、たしかに回りは峩峩たる山並みだ。」 「先ほどの峠が海抜1000メートル、峩峩温泉は850メートルの地点にある。 よくこんな山奥に温泉場を建てたものだ。」 ここに至るまでの道は、海抜380メートルのところにある遠刈田 ( とうがった ) 温泉を通り過ぎたあとは何箇所かの別荘地があるばかりでそのほとんどは深い山なのだ。 いまでこそこうして道路が通じているが、人の足だけが頼りの昔にここまで来るのはいかにたいへんなことだったろう。 遠刈田では融け残った雪があるだけだったのに、山の上に近づくにつれて雪がだんだん深くなりいかにもそれらしくなってきた。谷から吹き上げる風が雪を巻き上げ、バスの行く手を白くさえぎっていく。 二人を乗せたバスがかなり急な下り坂を曲がりくねりながらゆっくりと降り始め、清冽な谷川に掛けられた橋を渡ってやっと着いたのは山形県と宮城県にまたがる蔵王の秘湯・峩峩温泉である。 「周りは山ばかりだが、ここから蔵王山って見えるのか?」 「蔵王山というのは存在しない。 山形県側にある海抜1841メートルの熊野岳を主峰とする七つの山を蔵王連峰と称し、この一帯を蔵王と呼んでいる。」 「ふうん、なるほどね。 おい、足元に気をつけろよ。」 バスから降りたとたんに雪混じりの冷たい風が吹きつけてきてミロが首をすくめた。 踏み固められた雪の上を慎重に進むと、宿へと登る石段は周りを青いビニールシートでアーチ型の通路のように雪囲いで覆ってあって、こうでもしなければ谷底のこの土地では観光客を宿まで案内することが難しいのだと知れる。 「今年は暖冬で積雪も普段の三分の一程度だという話だが、それでも1メートルはあるぜ! この土地で3メートル積もるとたいへんだな!」 「平地のシベリアとは違い、雪崩や落雪への備えが重要だ。」 去年の日本海側の大雪で苦しむ人々の苦労を見るに見かねたカミュが融雪のために長期間出掛けていたことは二人の記憶に新しい。 そのころのことを思い出しながら玄関を入り、スノーブーツを脱ぐとほっとする。 「最初は、この靴を脱ぐというのが慣れなくてえらい思いをしたが、実に合理的だと思うぜ、聖衣のブーツも一日はいていると疲れるからな。 何とかならないか? もっと軽量化するとか、通気性をよくするとか。」 「無理だ。」 「そう言うと思った。」 笑いながらミロが宿帳を書き、部屋に案内される。 建物の棟をつなぐ通路は 「消防法によりここは通路の扱いになります」 と表示があって、床も壁も簡易なつくりになっており外気が忍び込んでくる。 「ふ〜ん、ここにスノーブーツがたくさん置いてあるぜ。 ………あれ? これはカンジキっていうやつじゃないのか?」 ミロが通路の壁にかかっているそれに目をやった。 「たまには雪の深さを考えずにスニーカーでやってくる客もいるのだろう。 それに、新雪が深く積もったときには、スノーブーツでは沈みこんでしまうのでカンジキが有効なのだ。」 「シベリアの聖闘士には無用だな、カンジキを履いて修行してたら笑えるぜ。 それとも小さいアイザックや氷河にはひょっとして使わせたりして?」 「え? 有り得ない。」 「冗談だよ、 本気にするな。」 通路を抜ければ宿泊棟は近代的な造りだが、寒いことは寒い。 そこが都会のホテルとは違うところで、全てに暖房が行き届いているというわけではないのだ。 「廊下もわりと寒いな。」 「私にはこのくらいが好ましい。 」 廊下の窓は小さめで、外側から木の桟が打ってあるのは雪対策なのだろう。 屋根からなだれ落ちた雪が窓の半分より上まで積もっていて昼間でも薄暗いのだ。 間隔をおいて壁際に置かれている竹籠風の灯りの色がなんともいえず暖かい。 「3メートル積もっていたら真っ暗だな。」 「雪国とはそんなものだ。 太平洋側とは雪に対する感覚がまるで違う。」 通された部屋は 「 楓 」 という名前がついており、他にも 「 辛夷 」 とか 「朴 」 とかの名前が目に付いた。 「ええと、なんて読むんだ?」 「カエデだ。 辛夷はコブシ、朴はホオ、いずれも木の名前だ。」 「なるほどね、日本の宿は名前に凝っていて面白い!206とか308なんかより楽しいと思うな。 お前だって、宝瓶宮が第11宮、天蠍宮が第8宮なんて味気ない名前じゃいやだろう?」 「え? そんなことは考えたことがないが。」 「え? そうなの? 俺はいつも考えてるぜ、宝の水瓶に天から舞い降りてきた蠍が忍び込んでいくっていうのはオツだなぁ、って♪ 中に入ってチクッと刺したりしてさ♪」 「昼間からよさぬか!」 「いいから、いいから♪ じきに日が暮れる。 気にするなよ。 で、昼間でなきゃ、いいの?」 「ばかもの!」 もとよりギリシャ語の会話は従業員にはわからない。 通された部屋は床の間付きの八畳とコタツのある四畳半で、かなりたっぷりとしている。 「ああ、コタツはいいね、冬はやっぱりこれに限る!」 にこにこしたミロが外に面しているらしい障子を開けてみて 「ほう!」 と声を上げた。 「これは、なるほどいい眺めだ、来てみろよ!」 案内の従業員に宿の説明を受けていたカミュに声をかけると、 「では、お食事は6時に承ります。」 お辞儀をした従業員が出てゆき、やっとカミュが窓側に寄ってきた。 窓の外は浴室棟の低い屋根を眼下にして、雪の積もった川岸とその向こうに高くそびえるごつごつした岩肌の崖が眼前に迫っており、そのずっと向こうまで蔵王の山が連なっているのだ。 このあたりの木はそのほとんどが落葉樹で、葉を落とした枝の茶枯れた重なりがいかにもアートのようで美しい。 崖の下に降り積もった雪は川岸の木々の根元を深く埋めながら暗灰色の岩肌にまとわりついて白い裳裾となっていた。 「ああ、これは良い!こんな景色が好きだ!」 「だろ? ここを選んだ甲斐があったというものだ! こういうのを絶景っていうんだよ。」 秘湯+絶景+設備+食事という贅沢なミロの望みに沿った宿を教えてくれたのは、むろん登別の宿の主人、辰巳である。 「そのご希望でしたら、峩峩温泉がよろしいかと存じます。 山奥の一軒宿でして、温泉の名前と宿の名前は同じになっております。 130年前に開かれた湯治場で、最近新しく建て直しましたが昔の風情が色濃く残っているといいますし。」 辰巳もすでに二人の好みは熟知しており、登別の宿が新しい建物であるだけに、こういった旅行の時には必ず昔の香りを感じさせる建物や土地を紹介して常に二人を満足させてくれるのだ。 「一応確認するが、電気も通ってる?」 去年の3月6日に泊まったランプの宿のことを思い出したミロである。 世間の秘湯のイメージはおそらくあちらの方に近いのではないだろうか。 「大丈夫でございます。 そのかわりカラオケや宴会は一切ございません、ここはあくまで静かに湯を楽しんでゆっくりと時間を過ごしていただくという主義の宿になっております。」 「ああ、それはいいね、気に入った!」 こうして勇躍 峩峩温泉にやってきた二人なのだ。 「じゃあ、俺は風呂に行ってくる。 お前は、どうする?」 「………」 一応訊いてみると、珍しくカミュが黙った。 「混んでるとは思えないが、そろそろいいんじゃないか? どうかな?」 二人が日本に来てから、もうじき三年になるのだ。 最初のころはミロと家族風呂に入ることさえ断固拒否したカミュだったが、けっして見ないということをミロが繰り返し確約し、やっと時間を少しずらして入ることに同意したのは数日後だった。 それから長い時間をかけた結果、ミロと浴室で親密な時間を過ごすことにもすっかり慣れたカミュだが、いまだに他人と一緒に入ったことはない。 しかし、とミロは思う。 慣れつけなくて恥ずかしいと思う気持ちはわかる カミュはたしかに俺より数百倍もナイーブだ でも、この湯の国日本で、 銭湯や温泉で平気で裸になってはばからない外人がたくさんいるのは周知の事実だからな カミュが思うほど日本人は気にしない 最初はチラッと見るだろうがそれだけのことだ じっと見たら失礼だという感覚が働き、礼儀正しく目をそらしてくれるものだ 「あの景色を湯船の中から見たいとは思うが、今は宿泊客が宿に着く時間帯だ。 すぐに湯に入る者も多かろう。 やはり私は遠慮させてもらう。」 「やっぱり……だめ?」 「しかし、」 「え?」 「夕食後なら酒を飲む客はすぐには入りに来ない。 その時間帯なら入ってみようかと思う………」 「よしっ、それなら俺も今日は飲まないっ!」 「……え? でも、飲むのをいつもあんなに楽しみにしているのに?」 「いいんだよ、今日はお前と一緒に入るから。 酒はいつでも飲める。 それに万が一、不躾な視線をお前に送る客がいたら俺がさえぎらなきゃいけないだろうが? お前を守るのは、いつでも俺の役目だからな♪」 「ん………では、頼もうか。」 少し赤くなったカミュが小さな声で言い、ミロをおおいに満足させた。 ⇒ |
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