峩 峩 温 泉 (ががおんせん)・入 浴 篇

「ええと、浴室は………ああ、この階段を降りていくんだ。」
いったん部屋に戻ってタオルを持ってくると、二人は浴室に向う。
渓流沿いの山裾の僅かな土地を利用して建てられているこの温泉の限られた平地は駐車場になっていて、傾斜した土地に高さを隔てて配置された幾棟もの建物は階段でつながっている。
浴室の入り口は左側が男性用、右側が女性用で、その中央の休憩スペースには飲泉用の水場と長椅子がしつらえてある。
いきなり浴室に入ることはせずにちらっと暖簾の奥を見ると、あいにく三組のスリッパが脱いであるのが見えた。

   三人か………思ったより多いな……

「少し待ってみるか?」
「ん………そうする。」
「ここの温泉は飲用にも適してるそうだ。 少し飲む?」
「ん…」
言葉数が少なくなったカミュに勧めると、備え付けの小さい柄杓を取って少しばかり飲んだのは緊張で喉が渇いているせいなのだろう。 長椅子に座っていると女性客が二人入ってゆき、入れ代わりに一人が出て行ったが、男性客が出てくる気配は一向にない。
「……無理かな。」
ぽつんとカミュが言う。
「もう少し待ってみようぜ、あきらめるのはまだ早い。」
「ん…」
遠くの瀬音と飲泉の流れる音がするばかりのこの場所には暖房はなく、足元から徐々に寒気が忍び寄ってくる。
さらに5分ほどたったころ、カミュが立ち上がった。
「もう、あきらめよう。 私のために、これ以上ミロを待たせるわけにはいかぬ。」
「え………やっぱり、だめか……?」
かなり最初から日本人に交じって温泉を楽しんでいたミロとは違い、カミュが越えなければならぬ心理的障壁はやはり大きいのだ。 三年たっても、いや、三年もたっているからこそ無理なものは無理なのだろう。
続いて立ち上がったミロがひそかに溜め息をついたとき、
「何を勘違いしている? 湯に入ろう!」
「え?!」
「私もそろそろ大人への階段を登る時期だ。 いつまでも…」
言葉を切ったカミュがうつむいて頬を赤らめたようだった。
「恥ずかしがってはおれぬ。」
「あ……ああ、そうだな。」
ミロの顔が輝いた。 こうして二人は暖簾をくぐったのである。

さして広い脱衣所ではない。 二段の棚には十数個の籐の籠が並び、そのうちの間隔をおいた三つには先客の浴衣が無造作に置いてある。 それぞれに空いている籠を選んでタオルを置いたとき、からりと戸が開く音がして二人の中年の客が湯から上がってきた。 当然のことながらさっさと自分の籠の場所まで来ると、バスタオルを取り出して元気良く身体を拭き始めた。 あいにくなことにそれがカミュの両側で、温泉の感想などをあれこれと話し始めてミロの方など見向きもしない。 

   おいおい、このシチュエーションはいったいなんだ?
   今の今まで考えもしなかったが、他人の裸を見るのもカミュにとっては相当恥ずかしいに決まってる!
   カミュが大人への階段を登る初めの一歩がこれっていうのは、あんまりだろうが!

真っ赤な顔で困惑した様子のカミュは何もしないというわけにもいかず、正面を向いたままゆっくりと帯を解くと、これまた丹念に五角形になるように巻き始めたものだ。 気の毒だとは思うものの、脇目もふらず 一心不乱の有様がなんだか可笑しくてミロは笑いをこらえるしかないのだ。 それでもまだ時間を持て余したカミュは、今度は極めてゆっくりと半纏を脱ぎ始めた。 二人の客は浴衣の帯も締め終わっているので、もう目のやり場に困るということはないのだが、今度はカミュ自身が浴衣を脱げなくて、脱いだ半纏の袖先をぴったりと揃えて折り紙を折るように畳んでいる。

   そこまでやれば越後の縮緬問屋の手代くらいにはなれるぜ
   それに、脱衣所で帯を正五角形にするやつは、今までに見たことがない!

そのころには髪に櫛まで入れ終わった二人の客は軽く会釈をすると出て行ってしまった。
「お疲れ様!」
「ああ………何とかなったようだな……」
緊張がほぐれたカミュの肩から力が抜ける。
「なにごとも経験ってことだ。」
苦笑いしながらさっさと脱いだミロが 「 先に行ってるぜ。」 と声をかけると中に入っていった。 誰も来ないうちにと髪をタオルでくるんで手早く浴衣を脱いだカミュがそっと戸を開けると、すぐ左が洗い場になっており、シャワー水栓が三ヶ所見える。 浴槽からは直視できぬようにうまく工夫されていて、先に入ったミロの姿が見えないところをみるとすでに湯に浸かっているらしかった。
もう一人の客の居場所を気にしながら祈るような気持ちでさっと湯を浴び、身をすくめつつ浴槽の方に進むと、川に向って全面に大きく窓がとってあり、ミロが一人で向こうを向いて湯に浸かっている。
物も言わずに少し離れたところに身を沈めたカミュがほっと息をついた。
「もう一人は、あっちだ。」
ミロが示すほうを見るとこの場所の隣りにも浴室があり、こことの境の三分の二ほどは板壁で区切られている。 そちらには窓が無いらしく、柔らかい白熱灯の灯りでぼんやりと照らされていて、この位置からは先客の様子はなにも見えない。
「こっちが 『 ぬる湯 』 で、あっちが 『 あつ湯 』 ということらしい。 ぬる湯といっても俺にはちょうどいいが。」
「私にもちょうどよい。」
肩まで沈んだカミュが湯の中でひらひらと手を動かすと、透き通った湯に白い身体が揺らいでみえる。
「視認性がよすぎて……」
「気にするな。 俺も外を見てる。」
この浴室全体は木でできており、それも昔のままの状態をよく残しているのでいかにも古色蒼然とした焦げ茶色を呈している。 洗い場も長い板を少し隙間をあけて敷き並べているので、かかり湯もどんどん床下に流れていくという珍しい造りになっているのだ。 むろんのこと浴槽も同じに古びた色なので、透き通った湯の中の白い身体は目立つことこの上ない。 考えまいとしても、ほかの客がいたらきっといたたまれなかったに違いないと思ってしまうカミュなのだ。
湯に浸かったまま窓際に寄っていったミロが両腕を浴槽の縁に預けてあごを気持ち良さそうに手の甲に乗せると溜め息をついた。
「絶景じゃないか、見てみろよ!」
「ああ……ほんとに!」
窓の外はすぐ谷川になっているのだが、降り積もった雪が川岸からせり出していて川面は見えていない。川の向こう側の岩壁はほぼ垂直に切り立っていて裾のあたりこそ雪が積もっているが黒々とした岩が聳え立つばかりなのだ。 岩壁の上からは葉を落としたブナやナラの木がずっと奥の山まで連なっていて、木々の根元に積った真っ白な雪が遠くまで続く稜線をはっきりと見せていた。
僅かな浴室の明かりが近くの雪面をぼんやりと照らしているだけで、風もやんだ今宵は動くものなどなにもない。 山のいで湯に身をゆだねる人も風景の一つになっていた。
「来てよかった………」
ミロにならって静かに窓際によってきたカミュが呟いた。
川の瀬音と湯船に流れ込む湯の音がするだけで、左右の壁の小さな白熱灯の暖かな灯りの色に照らされた浴室は実に居心地がよいのだ。 立ち昇る湯気の粒子が灯りの色を滲ませる。身体を寄せている木肌の古さも、柔らかく肌に馴染んで慕わしい。
「何箇所も温泉に行ったが、ここの湯が最高だ。 外の景色も古びた浴室も灯りの色も、それからむろん湯の質も肌あたりが柔らかくて実にいい………それに…」
低い声でささやくように言ったミロが手の甲に頬をのせるとカミュのほうを見た。
「お前がここにいる……」
「ん…」
隣りの あつ湯から上がった客が二人の後ろを通り過ぎて脱衣所へ出てゆく気配がした。
向きを変えた拍子に湯船の縁から流れ落ちた湯の音がさらさらと響く。
二人だけの至福の時が静かに流れていった。