峩 峩 温 泉 (ががおんせん)・翌 朝 篇

翌朝のミロの目覚めは爽快だった。 カミュと二人きりで初めての大浴場を楽しみ、その幸せの余韻を噛みしめながら部屋に戻って暖かい肌を重ねたのだから当然である。
「う〜ん、よく寝た。 」
暗い中で時計を見るとまだ五時前だ。
「俺はもう一度 湯に行ってくるけど、お前はどうする?」
「私は………やめておこう。 朝は人が多いかも知れぬ。」
「それは残念。 でも一つだけ頼まれてくれる?」
「頼みとは?」
「俺が戻ってくるまでフトンにいてくれること。……………いいだろ♪」
「ん………わかった……」
甘い唇に後ろ髪を引かれながら出て行った廊下はまだ暗いままで、冷え切った夜の空気が襟元から忍び込んでくるようだ。 首をすくめたミロが足を早めて浴室に向うと入り口あたりで他の客3人と一緒になった。

   ふうん……カミュが来なくて正解だぜ  三人はちょっときついからな………

「おはようございます。」
誰ともなく声をかけて挨拶すると、他人と入るわずかばかりのきまりわるさもどこかに行ってしまうから不思議なものだ。
昨夜は大きな窓のある 『 ぬる湯 』 にゆっくりと浸かり、最後に残った客がいなくなってから奥の 『 あつ湯 』 に入ってみたのだが、真冬のせいか温度はたいして変わらない。 それなら外の景色が見えるほうが良いというので、またもとの湯の方に戻り二人でゆったりとしていたのだ。
今度は窓のないあつ湯のほうでぼんやりとした灯りの風情を楽しみながら身体を沈めていると、三十歳くらいの長身の客が 「お邪魔します」 と声をかけて湯に入ってきた。
「どうぞ。」
ミロの日本語が流暢だったので安心したのだろうか、それから話が始まった。
「日本語がお上手ですね。 どちらから?」
「ギリシャです。」
「ほぅ、ギリシャとは!………それは遠くからおいでですな。 峩峩温泉に来られるとはよほどの温泉通とみえますね。」
「いえ、それほどでも。 仕事で長く滞在しているので、少しは温泉にも詳しくなりましたが。」
仕事というのは間違いではないとミロは思う。
カミュ曰く、「存在していることそのものが仕事 」 というのが聖闘士なのだ。 それにロングバケーションを取ることに罪の意識を感じかねない日本人に、長い休暇を取って3年も日本に滞在していると告げるのは望ましくないだろう。 ギリシャ人はそんなに暇なのか、という誤解を与えかねないではないか。
「息抜きには温泉がいちばんですね、日本人に生まれてよかったとつくづく思いますよ。」
「ほんとに羨ましい! とくに露天風呂の開放感がたまりませんね。」
窓の無いこの浴室に二人の声が響き、浴槽の縁から溢れる湯の音がさらさらと聞こえるだけの静かな空間はいかにも落ち着ける。 初対面の男の話しぶりも理知的で好感が持てるのだ。
「ここの露天風呂はもう入られましたか?」
「え?ここにもあるんですか?」
どうやらミロのパンフレットの読み方が浅かったらしい。
「最近、天空の湯というのができましてね、これがまた眺めがいいんですよ、ぜひどうぞ。 フロントで申し込むと、その時間に空いていれば係が案内してくれます。」
「それはいいことを聞きました、どうもありがとうございます。」
「お役に立てば幸いです。ところで…」
男がミロをちらっと見た。
「囲碁をなさいますか?」
「囲碁ですか? いえ、全然。 それがなにか?」
「いえ、なんでもありません、私が囲碁をやりますので、もしかしたらと思っただけですから。」
「あいにくそちらの方は。」

   ふうん、この男も囲碁をやるのか………
   囲碁はカミュの受け持ちだからな  俺にはチェスの方が面白いぜ

それから少し話をしてミロは部屋に戻っていった。 外は少し明るくなってきたようだが、まだ夜の部類だろう。

「待たせたかな?」
「………そんなことを聞いてくれるな……」
「それもそうか♪」
すっと寄り添って唇を重ねるとしなやかな腕がからみつく。
「暖かい………」
「うん、お前に分けようと思って身体の芯までゆっくりと暖めてきた。 もらってくれる?」
「ん……」
窓の外はもう明るくなってきたようだが、二人ともそれには気付かないことにしたようだった。

「露天風呂に行ってみようと思う。」
朝食のあとで言い出したのはむろんミロだ。
「空いてたら貸し切りにできるが、お前はどうする?」
「そうだな………行ってみて、大丈夫そうなら入ることにする。」
なにしろ、数ある露天風呂の中には、女湯から見下ろせるものや宿泊室から望見できるという立地条件のものもあり油断ができないのだ。 見られてもいっこうにかまわないという場合はいいだろうが、カミュには大問題だ。 むろんミロにもそんなことは容認できるわけがない。
「ともかくフロントに行ってみよう。」
幸いなことに食後すぐの時間は空いていて、すぐに係員が案内にしてくれるという。
大浴場の前の廊下をまっすぐに進むと外への出入り口があり、従業員の指示に従い備え付けのサンダルに履き替えた。
「ふうん、このまま外に行くんだ。 雪が積ってるから、足元に気をつけろよ。」
「お前に言われたくはない。 私を誰だと思っている?」
「アクエリアスのカミュです、はい。」
「わかればよろしい。」
外は細い通路になっていて足場が悪いのだ。 なにやら工事をしていて、斜面に沿った高い位置に人一人がやっと通れるほどの仮通路ができている。 2分ほど歩くと木の香も新しい小ぶりな建物が見えてきた。
「こちらが露天風呂です。 ご利用が終りましたらフロントに声を掛けてください。」
係員が戻って行き、あとは浴衣を脱ぐだけだ。
「お前はどうする?」
「折角だがやめておく。 いささか不安が残る。」
入り口には丈の長い暖簾が掛かっているだけで、右手の棚に置いてある籠に衣類を入れた後は左にある浴槽まで暖簾一枚の向こうを横切っていかねばならないのだ。 わずかな隙間が気になるカミュとしては不安が先に立つのはやむをえない。
「そうだろうな、いいさ、先に部屋に帰っててくれ。」
「では。」
きびすを返したカミュは来た道を戻り、裸になったミロが肩まで湯に浸かったときだ。 突然の大音響があたりを揺るがして、はっとしたミロが暖簾の下の隙間から外を見ると、さっき出てきた建物の大屋根から雪が大量に滑り落ちたらしく、まだ雪煙が残る横をカミュが平然として中に入っていくのがちらりと見えた。

   お、おどかすなよっ!!死ぬかと思ったぜ! 
   シベリアで修行した凍気の黄金聖闘士があんなことでやられる筈はないが、
   万が一、お前が下敷きになったら、俺はこの格好で助けに行くのか??
   いや、行くよ、行くけどさ………けっして嬉しくはないな………うん、できることなら避けたい事態だ
   理想としては、黄金聖衣を身につけてお前を抱き上げるのが最高のシチュエーションだ♪
   そして燃えるようなキスをする  うん、ぜひやってみたい!

ほっと安堵の溜め息をつきながら浴槽に身を沈め、それでも気になって首を伸ばして見てみると、ちょうど吹いてきた風が暖簾をはためかせて外の様子がよく見える。
建物の構造を見ると、人の出入りにはなんら危険のない側に雪が落ちる設計になっているようだが、さっきの落雪で3メートルくらいの高さにまで一気に雪の壁が積み上がったように思われる。

   ………待てよ?
   もし、ここにいるのがカミュで、あそこで雪の下敷きになるのが俺だとしたら、カミュは助けに来てくれるのか?
   いや、来ない筈はない! 来ない筈はないが、そのシチュエーションは実にまずいっ!
   それとも、この距離から一気に雪を融かすことができるのか?
   やるんなら、オーロラエクスキューションの逆バージョンだな
   それなら、なんら問題はないんだが………あとで、それとなく訊いてみるかな

そんなことをあれこれ考えている露天風呂というのも妙なものだ。 苦笑いしたミロが湯からあがり身体を拭いていると、川岸からの冷たい風が吹いてきて雪も少し落ちてきたようだ。 半纏を着込んだミロが急ぎ足で戻っていった。


さて、一足先に部屋に戻ったカミュはなにもすることがない。
蔵王のパンフレットを見直して、外の景色に眼をやり、荷物の整理をやり直す。 それも終ってふと、先ほどの天空の湯がどこにあるかを確かめたくなったカミュは窓に顔を寄せた。

   位置的にはここの真横に当たるようだが………えっっ!!

窓を開けてもいないのにガラスの内側から半分ほど見えるあの真新しい建物は、さっき二人で行った露天風呂ではないのか?
入り口の暖簾が見える。

   ということは………!

そのとたん風が吹き暖簾の裾を跳ね上げた。 あっと思った瞬間、湯船から上がったミロがその向こうを横切って身体を拭き始めたではないか!

   ミロっっ!!!

眼をそらすべきなのか、風がやむことを祈って無事(?)を見届けているべきなのか、混乱したカミュがはらはらしているうちにミロは手早く浴衣を着込み、こちらの方へと戻り始めた。 まさか、向こうからほぼ真横の位置にある窓ガラスの内側のカミュがミロに見えるはずはないのだが、慌てて部屋の奥に身を引いた。
初めて戸外のミロの裸を見てしまったことに動揺し、動悸が激しい。 均整の取れたミロの身体のラインが眼に焼きついている。

   こ……これだから露天風呂は怖いのだっ!
   そもそも山中に自然に湧き出た湯に浸かっていたのだから、目隠しのものなどないのが温泉の本来の姿だろうが、
   あんなことでは私は困るっ!!
   それに、それに………っ!

自分のほかにも窓の中からミロの裸体を見ていたものがいるかもしれないことに思い当たり、カミュは気が遠くなりそうだった。
それが男ならまだしも、もし若い女性だったら?
ミロはご存知の通りの見事な金髪である。 カミュほどではないが日本人に比べて肌の色も格段に白い。 今後、宿の中で遭遇したら、あの裸体の主が目の前にいる人物だと誰でもわかるだろう。

   男はいい!   もとから大浴場で裸のミロと会っていても、なんら不思議はないからだ!
   しかし、今のを女性に見られていたら………?
   景色を見ていた私が偶然に見かけたのだから、その可能性は否定できない
   この棟に上下合わせて20は部屋があるのだからな………ああ、ミロ………!

この事態をなんと考えればいいかわからなくて動揺をおさめられないでいるうちにミロが帰ってきた。
「いい湯だったぜ、俺ばかり悪かったな。」
「いや………別に……」
「なんだ? 元気がないようだがどうした? それに顔が赤い。熱があるんじゃあるまいな? 俺はなにもお前を赤面させることを言った覚えはないが。」
「大丈夫だ、心配は要らぬ。」
「なら、いいんだが。 それよりロビーにコーヒーを飲みに行こう。 湯上りには最高だと思う。 おっと、お前が入ってないのにこんなこと言ってすまん。」
「気にするな。 他に気になることもあるし…」
「ん? なにが?」
「いや、たいしたことではない。」
「なんだよ、教えろよ!俺とお前の間に秘密があっていいのか?今夜は許さないからな。」
「えっ、そんな!」
そんなことを話しながらちょっと寒い廊下を通り、ロビーへ行ってこの宿自慢の水出しコーヒーを頼む。 朝食後のサービスで、一日かけてゆっくりと抽出したコーヒーはいい味なのだ。
ふくよかな香りになんとか落ち着きを取り戻したカミュがゆっくりとコーヒーを楽しんでいると、二杯目を欲しくなったミロが立ち上がりカウンターに行った。 先にコーヒーの出来上がるのを待っていた男がミロの気配に振り向いたのを見ると、今朝方ミロと大浴場で話をした泊り客なのだ。 眼鏡をかけているので、ちょっと違った感じに見える。
「先ほどはどうも! さっそく露天風呂に行ってきました、おかげさまでいい湯でした。」
「それはよかったですな、喜んでいただけて嬉しいですよ。」
「緒方様、お待たせいたしました。」
ちょうどそのときコーヒーが出来上がり、緒方という客は軽く会釈をするとカップを持ってロビーの向こうの席に行った。
さて、ミロが自分の分を待っていると、カウンター脇の奥まった席にいる二人の客の話が聞くともなしに耳に入ってきたものだ。
「だからさ、ほんとだよ。 男湯に女がいたんだぜ。」
「まさか! 混浴ならわかるが、ここははっきりと男湯と女湯に分かれてるじゃないか、見間違いだよ、それは。」
「いや、間違いない! 外人だから暖簾の字が読めなかったんだよ、きっと!」
ここでミロが耳をそばだてたのは当然だ。 冷や汗が背を流れる気がする。
「男の方はきれいな金髪だ、ちらっとしか見なかったがたしかに外人の若い男だよ。 今度会ったらすぐわかる。 その手前に女がいて、髪をこうタオルでくるんでたから間違いはない。 色が白くてすごい美人だったんだからな、ほんとうだ。」

   頼むっ、もっと低い声でしゃべってくれ!
   カミュに聞こえたら、どうすればいいんだ??
   それから俺の方もけっして見てくれるな! 男湯に女を連れ込んだ男だと思われたくないっっ!!

「お前、美人の方ばかり見てたんだろう!」
「あっ、そんなことはないぜ。 なにしろ奥のあつ湯から出てきたら、目の前に外人の二人が湯に浸かってる。 あれっ、珍しいな、と思ったら、そのうちの一人が女だろ? びっくりしたが、そもそも上がるつもりだったし、ちらっと見ただけで慌てて眼をそらしたからなにもやましいことはない。 だいいち、間違って入ったのはあっちだからな、俺はぜんぜん悪くない!」
「ああ、わかったよ、それにしても俺もそんな美人の入浴姿を見てみたかったね♪」
「ふふふ、残念だったな♪首筋なんか、きれいだったぜ、細くてしなやかそうで。 うつむいているところが、なんとも清楚な色気があってね♪」
「今度 おごってもらうからな!」
「あっ、そういうことを言う?」
ここでコーヒーが出来上がり、受け取ったミロは自分の金髪を生まれて初めて呪いながらカミュの隣に戻っていった。
「私も二杯目をもらってこよう。」
「えっ! ええと、俺の分をやるよ、よかったら飲んでくれ。 もらってはみたものの、もう十分だから。」
「そうなのか? ではいただこう。」

   幸い、今日でこの宿ともお別れだ
   女と間違われたことを知ったら、カミュはどう思うだろう?
   俺としてもあらぬ誤解は避けたいからな………それにしてもカミュが女に見えるとはね………

ぼんやりとした灯りの中で肩まで湯に浸かっていたカミュの横顔をちらっと見ただけでは、なるほど女と間違うのも無理はないかもしれない。 長い髪が濡れるのを嫌ってタオルでくるむのはカミュにすれば当たり前だが、見慣れていない者からすればそれは確かに女のやりそうなことなのだろう。 それに比べて、髪を洗うつもりでいたミロは金髪をそのままにしていたし、浴槽の縁に腕を乗せていたから肩の筋肉も盛り上がっていたはずなのだ。

   なるほど、たしかに外国人のペアに見えるかもしれん
   カミュが美人だとは思っていたが、こうしてみると問題あるかもな………
   といって、どうすることもできん!

カミュがコーヒーを飲み終わった。
「じゃあ、行くとするか。 なかなかいい湯だったな。」
「うむ、いろいろと驚くようなこともあったし。」
「え?お前もか? 実は俺もだ。」
「ほぅ、………なんなら聞かせてやってもよいが。」
「俺も聞かせてやってもいい。 でも、今夜だ、今夜♪ 今は向かない話題なんでね。」
「私のも………そうだな、どちらかというと夜向きかも知れぬ。」
「ふうん、楽しみだね♪」
「お互い様だ。」
思い出し笑いを抑えかねてくすくす笑う二人がロビーを去っていった。






            
99%まで書き上げて全消去してしまった峩峩温泉・翌朝篇です。
            その悔しさで、書き直した文には予定になかった緒方九段が登場しました、ちょっと愉快。

            露天風呂の暖簾も屋根からの落雪も実体験です、リアリズム信奉ですから。
            それから、私が窓から見たのは女の人の後ろ姿でした、念のため申し添えますね。

                緒方九段が登場する話 ⇒ 古典読本・55 「雪の降る町を」 の続篇 「棋院にて」
                      「雪の降る町を」 からお読みになることをお薦めします。