初めて車に乗る日の朝、構内の模擬道路に停まっているたくさんの教習車の中から指定された番号の車を見つけたカミュが緊張しながら車の横に立って待っていると年配の男性教 官がやってきた。
「おはようございます。どうぞよろしくお願いします。」
と礼儀正しく一礼する。差し出した履修シートを受け取った教官が氏名欄を一瞥し、
「君たち、優秀だねえ。」
「えっ…」
カミュが返答に窮していると、
「君もミロ君もそろって満点だったんで教官の間で話題になってるんだよ。日本人でも筆記試験で満点を取る生徒は滅多にいないのにたいしたもんだ。君たちみたいに 優秀な生徒はめったにいないからこっちも期待しちゃってね。」
「は…恐れ入ります。」
「ギリシャ人なのに日本語は流暢だし背も高いしハンサムだし、怖いものなしだね、いや、羨ましい。」

   ハンサムとはなんだろう?

このときのカミュの語彙にはハンサムといういささか時代遅れの言葉はなくて今一つぴんと来なかったが誉め言葉だろうという見当はつく。
「恐縮です。」
と言ったらそれがまた教官をいたく感心させた。
「う〜ん、こんどは恐縮ときたか。このあたりじゃ免許を取りに来るのは高校を卒業したばかりの若いのがほとんどだから恐縮なんて言葉を知ってるほうが珍しいんじゃないかね え。日本人が外国人に負けてどうするんだ?カミュ君はどう思う?」
こんな話をふられるとは思っていなかったカミュだが、カミュ君と呼ばれたのが新鮮で耳にこころよい。 なにしろ日本に来てからは宿でも金融機関でも病院でも「カミュ様」のオンパレードだ。

   正直、カミュ様と言われると日本語の「神様」との類似性を考えざるを得ない
   私としてはいささか面映ゆいというものだ

「高校を卒業したばかりですとまだ語彙が十分ではないのでしょう。これから様々な社会経験を積むことにより語彙が飛躍的に豊富になると思われます。」
「だといいんだがねぇ。」
そう言いながらカミュの履修シートをファイルに挟んだ教官が車に乗り込むかと思いきや車の後ろに立ちカミュを手まねいた。
「誰でもすぐに乗りたがるんだが最初にやることは安全の確認だ。数ある事故の中には車体の下に潜り込んでいた子供に気付かないまま車を発進させて轢いてしまったという例も あるからね。運転以前の問題だな。」
そう言った教官が身を屈めて車の下を覗き込んだ。
「はい、君もやってみて。」
「はい。」
几帳面に路面に手をついて身体を低くしたカミュが車体の下を覗き込む。当たり前だが猫の子一匹いない。
「異常ありません。」
頷いた教官が車を走らせるにあたってもっとも大事なことは安全であり事故を起こさないことだと述べカミュも深く頷いた。
「じゃあ、そっちから乗って。」
「はい。」
いよいよである。内心ドキドキしながら運転席に座ったカミュに教官が、
「次にすべきことはなんだと思う?」
と訊いてきた。
「シートベルトを締めます。」
「正解だ。」
こうしてカミュの教習は順調にすべりだした。


                                            




        免許を取った時のことを思い出して書いています。