地 獄 草 子

「ここが蓮華王院本堂、俗に三十三間堂といい、1001体の千手観音が並んでいることで有名だ。」
「1001体とはずいぶん多いな。」

京都駅から七条通りを東に進み、東山にほど近いあたりまで来た二人は三十三間堂にやってきた。正月成人の日の通し矢に全国から集まる弓道家でたいへんな賑わいとなるこの場所も、真夏の今は観光客の姿もまばらである。
「ここは後白河上皇が平清盛に命じて作らせたもので、建立は1164年、堂内の柱の間の数が三十三あるため、この名が付いた。その後火災で焼失したが百年後に本堂のみが再建され現在に至っている。」
「ふうん……! 木造建築が750年も残っているってすごくないか?」
「いや、上には上がある。 奈良の法隆寺は7世紀後半の建築で、およそ1300年前の世界最古の建築物だ。」
「1300年っ! 十二宮は大理石造りだから残っていて当たり前だが、たいしたものだな!」
感心しながら入り口に近付くと、またもや靴を脱ぐ場所がある。
「この、靴を脱ぐっていうのがどうにも不自然だな………なにしろ俺たちにとって靴を脱ぐっていうのは寝ることに直結していて…」
「ミロ………場所柄をわきまえて、不穏当な発言は慎んでもらいたい。」
靴を丁寧に棚に納めたカミュがいくぶん頬を赤らめた。
「わかってるよ、異教とはいえ神や仏は敬意を払うべき対象だ。 それにシャカとの縁もある。仏教は、俺たちにとってそれほど遠い存在じゃない。」
神妙な顔をしたミロは、備え付けのスリッパを履くとカミュとともに順路を進む。

堂内に入ったミロが目をみはった。
「………ほぅ!これは、これは!」
「なんとも荘厳な眺めではないか!」
仄暗い堂内に国宝の千手観音坐像を中央にして、左右に十段、一列に五十体ずつの千手観音立像が整然と並んでいる様は見事としか言いようがなく、そんなことを予想していなかったミロを唖然とさせた。
「大変な数だな! それにどうしてこんなに手がたくさんあるんだ?」
「40本の手それぞれが二十五の世界を救い、二十五×40で1000となる。それで千手観音というのだ。 仏教界では天上界から最下層の地獄まで二十五の世界があるとされる。」
「ふう〜ん………地獄ねぇ……」
端からゆっくりと見て歩いていたミロが中央あたりで足を止めた。
「この蝋燭はなんだろう?」
首を傾げるミロにかわってカミュが英語の説明文を読む。
「家族の健康や良い未来を願って仏に献灯するということらしい。 この箱に浄財を入れるのだろう。」
「仏教徒じゃないけど、やってみてもいいかな?」
十数本の蝋燭が残りの長さ様々に静かな炎を上げており、どうやらミロも仲間入りしたくなったようなのだ。
「かまわないのではないのか? もし、異教徒の献灯を禁ずるのであれば、英語の注意書きがあるはずだ。」
「では…」
真っ白い蝋燭を一本取ったミロがずらりと並んだ蝋燭立ての一つにさして、マッチで火をつけた。橙色の炎が揺らめき、見よう見まねで手を合わせたミロが黙礼して何事かを祈る。
英文の説明を読んでいたカミュが歩き出すのを追って来たミロがほっとしたように一つ息をついた。
「仏教の仏になにを?」
「うん、大事なこと♪」
神仏への祈りは他人に洩らすものではないのだ。 軽はずみに問うたことにカミュが少し頬を染めた。

三十三間堂から外に出ると、向かい側にフレンチルネッサンス様式のレンガ造りの立派な建物が見える。
「あそこに行きたいな、なんの建物だろう?」
「あれは京都国立博物館だ。………ああ、ちょうどいま、絵巻展をやっている。これはよい!」
広い洋風の前庭を持ったこの博物館は日本に四つある国立博物館の一つで、西に向いた正門のデザインがその名称の重さにに不釣合いなほど愛らしく、おおいにミロの気を惹いた。
「おいおい、こんな可愛い正門って、あっていいのか?天蠍宮の入り口にどうだろう?」
「少し派手ではないのか?」
「いいんだよ、俺は派手好きなんだから♪」
笑いながら門を通り本館に入ると、そこは日本伝統の絵巻物の世界なのだ。
源氏物語や鳥獣戯画、信貴山縁起絵巻など、超一流の国宝の絵巻が惜しげもなく展示され、かつてなかったその規模がたくさんの日本人や日本美術に関心を持つ外国人を惹き付けている。年配者がもっとも多いが、京都という土地柄のせいなのか、美術系とおぼしき学生らしい若者も数多く、それはそれは熱心にガラスケースの中を見つめている。
「大変な人出だな! 日本人はよっぽど美術好きらしい。」
「これほどたくさんの国宝級の絵巻が一堂に会するのは空前絶後のことのようだ。巡回はしないようなので、おそらく日本中から美術ファンが来ているのだろう。」
「国が豊かで平和な証拠だよ、いいことじゃないか!」
そんなことを話しながら順路を進んでゆくと、次の展示室にはなんとなく異様な雰囲気がある。
絵巻の褪色を防ぐべく、どの部屋の照明もかなり照度を落としてあるのだが、ここはそれに輪をかけて陰鬱な空気が立ち込めているようなのだ。
「……あれ?」
言葉を切って展示ケースに近付いたミロが息を飲む。
「どうした?」
ミロの肩越しに覗いたカミュの視線が絵巻に吸い寄せられた。

  国宝 「地獄草子 」

平安末期に描かれたそれは、当時流行した仏教の六道思想に基づき経典に語られている地獄の有様を絵巻にしたものである。 東京と奈良の国立博物館から貸し出されてきた地獄草子には罪を犯して地獄に落ちて苦しみ悶える人々の様子が十一面にわたって生々しく描かれており、今までの十二単や春秋の野山の美しさを華麗な筆致で描いていた絵巻とは明らかに一線を画すものだった。
八大地獄のうち、殺生や盗み、邪淫などの罪人が堕ちる雲火霧 ( うんかむ ) 地獄の場面では、獄卒に追われる裸の男女が燃え盛る大火炎から逃れられずに苦悶する有様を的確な描線で生々しく描き出しており、ミロの目をみはらせた。 炎と流血の朱色が目に痛い。
「これは………なんともすごいな!」
「うむ…」
言葉少なに呟くカミュは緊張した面持ちで絵巻から目を離そうとしない。
「俺も地獄に落ちたことがあるが、まったく笑えた話じゃないな。 こんな光景こそ見なかったが、二度とはごめんだ。」
すたすたと歩きながら長い絵巻の全体を見たミロが きびすを返した。
「おい、気分直しにもう一度鳥獣戯画を見に行こうぜ!あの漫画みたいな明るさが、俺は好きだよ。」
返事がないのでなにげなく振り返ったときだ。 なおも地獄草子を見つめていたカミュの身体が薄く透けるようになったかと思うと、その姿はあっという間に煙のように色を失い、ガラスケースを透過して絵巻物の中に吸い込まれていったではないか!
「カミュっ!」
ぞっとして駆け寄ったミロが絵巻物を凝視する。
亡者を見張る悪鬼の立ちはだかるその向こうの岩陰に墨痕鮮やかにたった今描き加えられたかのような艶やかな髪がわずかに見えて、ミロを戦慄せしめた。

                                        

     
京都国立博物館・正門 ⇒ こちら
     京都国立博物館・本館 ⇒ こちら
     地獄草子 (東京国立博物館 蔵)  ⇒ こちら
     地獄草子 (奈良国立博物館 蔵)  ⇒ こちら