※ 中篇


食い入るように絵巻を見つめるミロの頬から血の気が引いた。 心臓が早鐘を打ち、足が震えて立っていられない気がする。

   そんな………そんなはずはない!
   ついさっきまでここにいたのに………俺とずっと一緒にいたのにっ!

周囲のざわめきが遠い世界のできごとのように思え、急に一人でいる寂しさがこみ上げてきた。このままカミュが戻ってこないかもしれないという恐怖が圧倒的な質量でミロの心を押し潰す。

   俺もっ………俺も中に引き入れてくれっ!
   頼むっ、頼むから!!

しかしミロがいくら念じても、何事も起こりはしない。蒼白になったミロが通路の方に身をひるがえし、すぐにその姿は消えた。


処女宮の奥の蓮華台で瞑想していたシャカがわずかに眉をひそめる。
「……カミュになにがあった?」
ミロが突然目の前に現れた非礼を、今日のシャカはとがめだてしようとはせぬ。
「カミュが絵巻物に………地獄草子の中に引き込まれた! どうすればいい?」
シャカが立ち上がった。

「どのくらい時間が経っている?」
「1分も経っていない。 ついさっきのことだ。」
展示ケースの前でシャカが頷いた。
「遅すぎはしないが、早いというわけではない。」
「間に合うか?」
「確約はできぬ。」
そのまま二人の姿は消え、あとにはなにも残らない。なにも気付かなかったらしい観光客が珍しげに地獄草子を覗き込んだ。

地獄の瘴気は凄まじい。
シャカとともに降り立った途端、まがまがしいほどの悪寒に襲われたミロが思わずよろめいたほどだ。
「私は仏陀の加護を受けているが、それのない君の身体にはじきに瘴気が巡り、手足は重く、目も見えず口もきけなくなるだろう。 しかし、私といれば死ぬようなことはない。」
「俺は自分のことは心配していない。 問題はカミュだ。」
硬い口調で答えるミロを見もせずにシャカが重ねて言う。
「よいか、ミロ、ここのものには一切 手を触れてはならぬ。 ひとたび触れれば、その身は地獄界に囚われて二度とふたたび現世には戻れぬことになる。」
「……カミュにもか?」
「むろんだ。 」
草木一本見えぬ荒涼たる地を迷いもせずに歩いてゆくシャカの後ろをゆくミロの額に冷たい汗が滲む。 
鉛色の空にときおり赤味を帯びた稲妻が走り、おどろおどろしい音を響かせる。 まとわりつく空気はざらざらと肌に染み入るようで、吸い込むたびに喉がひりついてくるのだ。
ときおり吹いてくる肌にねばつくような陰風が不快な鉄の臭いをさせているのは地獄の地に染み付いている血のせいかもしれなかったが、とてものことにシャカに訊く気になれるものではない。 高みに上ったときに遠くに見えた濁った暗赤色の川が、先ほど見ていた地獄草子の血の川を思い出させてミロの気分を暗澹とさせるのだ。
やがて行く手に一群の鬼どもが見えてきてミロをドキッとさせた。 鋭い突起が無数に突き出た金棒を持ち、中には三つ目の異形の鬼もいる。 その脇では、見る影もなく痩せ衰えた素裸の亡者たちが大きな石を抱え上げては山の上まで運び上げ、すぐまた転がり落ちてくるそれをもう一度運び上げるという気の遠くなるような作業を延々と繰り返しているのだ。
「聞きしにまさる凄いところだな………」
「このくらいはまだ序の口だ。 ここの亡者どもの罪は、地獄に堕ちた者の中でももっとも軽い。」
一匹の鬼が金棒を振るい、苦痛と恐怖の悲鳴があがる。
恐れ気もなく近付いたシャカが、ひときわ大きな牛頭 (ごず)に声を掛けた。
「人を探している。 ついさっき落ちてきた人間はどこだ?」
「ほぅ! これは面白い! 死人でもないのにここにいるとは不思議千万!おい、誰か知っているか?!」
吠えるような声に何匹もの恐ろしげな鬼が振り向き、てんでに寄ってきてミロとシャカの金の髪を珍しそうに見るのがなんとも薄気味悪い。 青黒い肌をして牙を剥き出した鬼の首には血のこびりついた真新しい髑髏が輪つなぎに掛けられていて、風が吹くたびにカラカラと乾いた音を立てるのがミロにはたまらないのだ。
「新入りなら向こうの岩陰で見かけたが、あれのことか?」
「そういえば、髪が長くて生白いやつを馬頭 (めず) がつかまえてたな。」
「かかえ込んで舌舐めずりしてたから、今ごろは頭から喰っちまってるかもしれん!」
「ここの亡者どもと違って生きが良さそうだったから、さぞかし美味いだろうよ!」
「俺たちもおこぼれに預かりたいものだ!
「そいつは無理だろう、骨の二、三本でも残っていれば儲け物だ!」
口々に言って一斉に呵々大笑する声に、ミロの怒りと不安が髪の毛の一本一本を逆立てる。
「抑えよ。 ここで怒ってもどうなるものでもない。」
「しかし…っ!」
「 あれは我らをからかっているだけで、 本来、地獄の鬼は人を喰わぬものだ。 地獄の責め苦の範疇に、生きながら喰われる恐怖は入っていない。 焼けた鉄の玉と融けた銅の汁を喰わされるという責め苦ならあるが。 どんなに喉と胃が焼け爛れても、食べるのをやめることは未来永劫できぬのだ。 ともかく急ごう。」
気の弱いものなら卒倒しそうなことをさらっと言ってのけるシャカに慰められているのか脅されているのか、ミロにはとうてい判断がつかないのだ。 地獄に堕ちたカミュがどんな恐ろしい目に遭っているかと思うと、ありとあらゆる恐ろしい妄想がミロの心をじわじわと蝕んでゆく。
先を行くシャカは平気で歩いてゆくが、ミロの足元の砂はまるで流れるようで、容易には進めない。気ばかり焦り、それでもやっとの思いであとについてゆくと、遠くの岩陰になにやら人の姿が見える。

   あれは……カミュ…っ?!

胸も潰れる思いでようやく近付くと、馬頭人身の赤黒い大きな鬼が、なんとカミュの髪をつかんでどこかに引き摺ってゆこうとしているのだ。 びくりともせず目を閉じたカミュは、生気がなくて小宇宙もほとんど感じられない。
「カミュっ!!」
「待て! その者をどこにつれて行く!」
馬頭が振り向き、鼻息も荒く吠え立てる。
「この俺様に偉そうに指図するのはどこの馬の骨だ! こいつを閻魔大王のもとに連れて行き、罪科をあらためてもらうのだ。 そうでなければ連れて行く先が決められん!」
「シャカ! あれはなんのことを言っている?」
「カミュは寿命とは関係なく地獄に引き込まれている。 うまくいけばそのまま連れて帰れるかとも思ったが、鬼どもの獄卒である馬頭に見つかってしまってはそういうわけにはいかぬようだ。 このまま連れてゆかれては、カミュはいままでの罪状を裁かれて二度と人間界に戻っては来れぬ。」
「そんな………! カミュは罪を犯してなどいない! 清廉潔白で間違ったことなど何一つしてはいないのだぞ、そんなことはよく知っているだろう! 無罪放免になるに決まっている!」
ミロは血相を変えた。
「それがそうでもない。」
「なにっ?!」
「我ら聖闘士は好むと好まざるとにかかわらず人をあやめたことがある。 カミュもそうではないのか?」
「それは………しかし、カミュはアテナと地上の平和を守るために…!」
「そんなことはわかっているが、ここではその理屈は通らない。 カミュが人をあやめたことがあると知れたら、私にもカミュは救えないのだ。」
「では、どうするっ!このまま見殺しにしろというのかっ? あそこにカミュがいるのに……!!」
そうしているうちにも馬頭が動かぬカミュをぐいぐいと引き摺り始めた。
「くそっ、この世に神も仏もいないのかっ?!」
ミロが歯軋りをしたときだ。 シャカの眉が上がった。
「ミロ、これほどの瘴気があるにもかかわらず君がまだ話ができるということは………もしや誰かの庇護を受けているのか?」
「……え? 庇護って?」
形を改めたシャカがミロに相対して印を結び、なにやら真言を唱え始めた。

   え? ……なんだ? なにをしている? そんなことよりカミュをっ…!

「これは驚いた! 君の身体は千手観音の庇護を受けている。 いったいいつの間に?」
「……え?」
うすく笑ったシャカがさらに真言を唱えると、急にあたりに金色の光が輝いた。 五色の瑞雲がたなびき、清浄の気が満ちる。
あまりの眩しさに目がくらんだミロがはっと気付くと、馬頭はカミュを手放してその場にひれ伏しており、合掌したシャカが光の中に話しかけている。
「………ですから、あの者はいまだ寿命の参りませぬ者にございます。 なにとぞ連れ帰ることをお許しください。」
『 それはよいが、すでに時が経ち、反魂 ( はんごん ) は難しい。 かわりの命を吹き込まねばならぬが、人一人、連れてこられようか?』
「はて……? 身代わりにここに残らねばならぬとすると………」
言葉を切ったシャカが一瞬考え込んだときだ。
「俺の命をやろう! シャカ、俺の代わりにカミュを連れて帰ってくれ!」
「あっ、ミロ!!」
地に打ち伏しているカミュにつかつかと近寄ったミロは、シャカが止める言葉も聞かばこそ、いつもしているようにやさしくその身体を抱き起こす。

   これでお別れだ………カミュ……俺の最後の愛をやろう………

瞠目するシャカの目の前で、 カミュの血の気のない雪白の頬にかかる髪をいとおしそうにかきあげたミロが唇を重ねていった。
こわばった身体に、氷よりも冷たい唇におののきながらおのれの小宇宙をあらん限りの優しさで吹き込んだミロの耳に千手観音とおぼしき声が響く。
『 善き哉、善き哉! 』
金の光がひときわ明るく輝いてから、ゆっくりと消えていった。

   ………え?

驚いて顔を上げると、これはまた珍しく微笑んだシャカがミロを見ている。
「千手観音の御手は二十五の世界の衆生を救い、その中にはこの地獄界も含まれます。 なぜかその庇護を受けていたあなたはカミュを救い、自分をも救ったということになりますね。 神仏はしばしば人を試すものですが、あなたは見事にそれに応えたのです。」
「ということは………」
はっと気付いたミロがあわてて腕の中のカミュを見た。 ついさっきまで真っ白だった頬には早くも血の色が昇り、抱きしめている身体にしなやかさが戻りつつあるのがなんともこころよい。
「みんなで帰れます。」
シャカが莞爾として笑った。