地 震

何の前触れもなかった。
朝食を終えた二人がホールを通り抜けようとしたときだ。 足元のわずかな揺れに違和感を感じたとたん、激しい縦揺れに襲われバランスを崩す。 何が起こったか瞬時に把握できないながらも、大きくよろめいたカミュに咄嗟に手を差し出したミロの視界の隅に、フロントにいる美穂に背の高いガラスキャビネットが倒れ掛かるのが見えた。


玄関脇の駐車場に美穂を連れ出したミロが周りを見ると、 地面の揺れはまだ収まらず、停めてあった車も揺れていれば近くの白樺やナナカマドの梢も大きくざわめいていてなんとも落ち着かないのだ。
「ああ、ミロ様、ありがとうございます! ほかのお客様はご無事でしょうか?!」
「いまカミュが確認している。 きっと大丈夫だ!」
玄関や通用口から何人もの従業員や客が次々と飛び出してくるのが見えて、やがてカミュが現れた。
「ミロ、無事か?」
「ああ、なんとか。 いったい何事だ?」
「おそらくこれが地震だろう。」
「地震? こんなに揺れるのか?」
「これだと震度4くらいだと思います!」
「震度って…なに?」
「地震の揺れの大きさですわ、1から7までありますの。」
「ふうん、震度なんてあるんだ!」
ミロには初耳の言葉である。
大きく揺れたわりには被害は少ないようで、宿のパブリックスペースを見て歩くと娯楽室の書棚から本が飛び出して床に散乱しているくらいのものだ。 ホールのガラスキャビネットが倒れてガラスが四散したのが唯一の被害らしく、やはり安全確認をしていた宿の主人に言わせれば、たいしたことはない地震なのだという。
いったん避難していた客たちが、やれやれといった顔で部屋に戻り始めた。

離れに戻ってみると、テレビ台が10センチほど動いていただけで特に変わったことはない。
「さっき美穂が震度4とか言っていたが、どうして地震のレベルなんかがわかるんだ?」
「美穂の言うには、日本人は地震慣れしているから、身体で感じる揺れの大きさで、1から4くらいの規模ならだいたい判別がつくのだそうだ。」
「ふうん、すごいもんだな! 俺なんか驚くばかりで、相当の場数を踏まないとレベルなんかわからんな。」
「それは仕方がない。 そのかわりに我々は相手の小宇宙の強さを明確に判別できる。」
「それもそうか。」
感心しながら茶を飲んでいたときだ、もう一度大きい揺れが来た。
「…あっ!」
茶托に置いていたカミュの茶碗が揺れて半分ほどこぼれ、床の間の掛け軸が揺れる。 思わず腰を浮かせかけたミロだが、じっと座っているカミュの手前、ドキドキしながら腰を下ろした。
「おい、また揺れたぜ!」
「これが余震というものだろう。 大きな地震の後は、すぐに収まらずに数回から数十回の余震が続くことがあるそうだ。」
「ふうん………すると日本人はこんなのに慣れきってるってわけか? 星矢なんかが打たれ強いのは地震に慣れてるせいなのか?」
「さぁ? そんなこともあるまいが。 それから、縦揺れと横揺れの区別も付くと言っていた。」
「え? 揺れ方にそんな区別があるのか?」
「さらに起震車というものがあり、人為的に地震を発生させてそれを体験できるという装置を搭載しているそうだ。」
「キシンシャ?………え? よくわからんが?」
そのとき電話が鳴って、カミュが受話器に手を伸ばした。
「はい………大丈夫です………なにも被害はないので………はい。」
「フロントか?」
「美穂からだ。 宿としては地震のときの宿泊客の安全確保が最優先なのだろう。」
「それは当然だろうな。」
「うむ、地震が起こったときには即座にテレビにその情報が流れ、揺れた地域の自治体の震度が速報される。 震源地も数分で確定され、地表からの深さ、津波の有無、津波がある場合は予想される波の高さと海岸に到達する予想時刻まで表示されるそうだ。 ちなみにさきほどの揺れは震度3だという。」
「すごい解析システムだな、ギリシャではとても考えられん!」
「日本中のどの土地でも、いつ大地震が来るかわからぬため、日本人はみな緊急時の避難用具を用意している。」
「え?」
「家屋が破壊される可能性もあるので、医薬品・食料・飲料水・簡易寝具・懐中電灯・携帯ラジオなどは必需品だそうだ。 これをいつでも持ち出せるようにバッグなどに用意しておくのは国民的常識だという。」
「ふう〜〜〜ん! それってかなり緊張する暮らしだな!」
「極めて大きな地震が起こったときの被害は甚大で、死者が数千人に及ぶときもある。 日本は地震列島、また、地震の巣の上に乗っている、という表現もあるそうだ。」
「ふう〜〜〜〜〜ん! もしかして俺たち、危険な国に滞在してるのか??」
「……そうともいえる。」
「知らなかったぜ………」
そのあとも数回の余震があったがいずれも小さいもので、ミロも最後には眉をあげる程度の反応で済むようになったところを見ると、地震にもかなり馴れたらしかった。


「カミュ…………」
「あ………」
「こんなに………こんなに愛してる………」
「ミ………ロ……」
紅潮した肌に慈しみの度を深めたミロがさらに手を進めたときだ。 突然の揺れが二人を襲った。

   あっっ……!!

住み慣れた離れがミシミシと軋む。 ものも言わずにミロにしがみついたカミュの爪が痛いほど腕に食い込み、激しい上下動に翻弄されて形容できない恐怖に背中から押しつぶされそうな気がするのだ。 腕の中のカミュを少しでも守ろうと抱きしめるうちにも心臓が早鐘を打ち、逃げようにも逃げられない切羽詰った状況がミロをパニック寸前に追い込んだとき揺れが終わった。
「あ………」
合わせていた胸の鼓動が恐ろしいほどに早く、冷や汗が浮かぶ。 抱きかかえていたカミュの肌もしっとりとぬれて、蒼白の頬からは緊張が抜けてはいない。
無言のまま動くことができず極度の興奮の中で互いに呼吸を整えていたとき、静けさを破って突然電話が鳴った。
「わっ!!」
およそ らしからぬ声を上げたミロがようやく手を伸ばし、やっと受話器をつかんだ。
「………はい………はい……ああ、大丈夫だから。 なんともないです、はい………おやすみなさい。」
ガチャッと受話器を置いたミロが、どっとフトンに倒れこむ。
「美穂からだ………今の余震で被害はなかったか、の安全確認………」
「ん………」
真っ赤になったカミュがそっとフトンを引き寄せた。
「ほんとに日本って国は……………今のは震度5じゃないのか? 心臓に悪いぜ………」
ぶつぶつ言いながらミロがもう一度カミュのそばにもぐりこむ。
ぬれた額に張り付いた髪をそっとかきやり、背中にやさしく手をそえて、蒼い瞳を見つめて………そこでミロがくすくす笑い出した。
「だめだっ、もう我慢できんっ! 今夜はやめよう! また余震と電話が来るかと思うと、気になってとてもお前を抱けたもんじゃない!」
肩を震わせて笑うミロにつられてカミュも苦笑する。
「私もだ。 およそ、そんな気にはなれぬ。」
「こんなことは初めてだ、明日は忘れられるといいんだが。」
「笑い出したほうが罰ゲームだな。」
「えっ、お前がそんなことを言う? ちょっと自分に自信が持てないぜ、俺♪ 勝てないような気がする。」
「私も負ける自信がある……」
その後、しばらく忍び笑いが続いていたようだ。

翌朝、食事処で美穂が寄ってきた。
「昨夜は、なんともなくてなによりでした。 昨日の地震はそれほどではありませんけれど、大きな地震のあった夜は、すぐに逃げられるように服を着たまま寝ることもあるんですのよ。 部屋にガラスが飛び散ることもあって危険なので、靴も枕元に置いておきますの。」
「え………」
「でも、お二人とも聖闘士でいらっしゃいますし、ご心配をおかけしてもと思いましたので。 さきほど気象庁が安全宣言を出しましたからもう心配はないと思います。」
「あ……そう……うん、それはよかった!」
ちらっとカミュを見ると、少し赤い顔をしてうつむいたまま粥をよそったりしている。
「ええと………安全宣言を祝って、お銚子を一本もらおうかな♪」
「はい、かしこまりました。」
朝食の席でいきなり昨夜のことを思い出さされては、飲まずにはいられぬというものだ。
「お前も少しは飲めよ。 顔色をごまかさなくちゃ、まずいだろう。」
「お前こそ……」
「うん……」
その夜、どちらが先に笑い出すかは、まだ謎である。

                                     





             
地震国日本、この見聞録ははずせません。
             けれども、ほんとに大きな地震があったときにはとても申し訳なくて出せないので、
             沈静化している今このときに書かせていただきました。
             今後とも大きな地震が来ませんように。

             ※ 日本では揺れの度合いを 「 0、1、2、3、4、5弱、5強、6弱、6強、7 」 の10階級に分けた
               「気象庁震度階級」 が使われています。 これは日本独自のものです。

             
読者様より、ギリシャは地震大国、とのお知らせをいただきました。
             けれども、勉強不足でこの話は成立しない、とミロ様に申し上げましたら、
             御本人はたいそうお気に召していらっしゃいまして、ストーリーの変更を断固拒否されました。
             しかたがないので、創作、ということでこのままにしておきますが、
             ギリシャは地震大国である、ということだけお心に留めていただきますようお願いいたします。