蚊 取 り 線 香

「日本の夏はやっぱり蚊取り線香だろう。」
「電気蚊取りやノーマットタイプは風情がない。伝統は大切にしなければならぬ。」
しかし、宿の離れに蚊取り線香はない。室内で刺されたことがないので、最初の夏に用意されていた電気蚊取りを翌年から断って今に至る。蚊取り線香を使ってみたいというミロとカミュのささやかな夢がかなったのは、つい最近のことだが、それには以下のような経緯があった。



「もしもし……うん、おはよう。 今日の朝食は部屋で食べたいんだけど頼めるかな?……うん、時間にはこだわらないから。……それで、申し訳ないんだけれど、もしかしたら今日はずっと部屋で食べるかもしれないから……ほんとに迷惑かけてすまない。もしも明日もだめだったらまた連絡するので…………いや、そういうわけじゃないけど、ちょっと都合が……うん、じゃあ、よろしく。」
受話器を置いたミロが振り返った。
「持ってきてくれるそうだ。」
「うむ…」
カミュが一つ溜め息をついた。

今朝のことだ。
カミュは鳥の声で目が覚めた。長かった八月もようやく終わり、暦の上では秋であるはずの九月に入ったというのに今年の日本列島は茹だるような暑さが続いている。 北海道でも場所によっては8月には35度を超える猛暑日を記録したほどの暑さで、涼しさになれていた二人を驚かせた。
もっとも外気温がどうであろうとも、完璧に空調の効いている室内ではそんなことを微塵も感じはしない。隣に寝ているミロのぬくもりがいつものように心地よかった。

   ……え?
   なんだか瞼が重く感ずるのは気のせいか?
   目が開きにくいが…なぜ?

目が覚めきっていないような気がしたカミュがちょっと身じろぎをしたとたん、すぐそばでミロの上ずった声が聞こえた。
「うわっ……カミュ…お前っ!」
どうしたのかと思ったカミュが鬱陶しい気持ちを抑えながら目を開けると、ミロの驚愕した顔が見えた。
「どうした?」
「どうしたもこうしたも……お前、すごくまぶたが腫れてるっ!いったい、目をどうしたっ?!」
「え?……そういえばさっきから違和感が…」
「違和感ありまくりだろう!いったいどうしたんだ!なんか恐ろしい病気にでもかかったのか?!鏡を見てみろ!」
「そんな大袈裟な。」
しかし、ミロの慌てようがなにも大袈裟ではないことがすぐに判明した。
「これはいったい…!」
洗面台の鏡に映った自分の顔を見たカミュは絶句した。左の瞼が無残に腫れ上がり、やっと細目を開けられるだけだ。演劇雑誌で見たことのある 『 番町皿屋敷 』 のお岩とまではいかないが、かなりぞっとする腫れっぷりである。色が薄ピンクなのがせめてもの救いといえるだろう。
「痛くはないのか?」
「少し痛いような痺れたような……ともかく重い。目を開けているのがつらいし、なにより鬱陶しい。いったいどうしたのだろう?」
「なにか悪いばい菌が入ったんじゃないのか?医者に行ったほうがいいな。」
蒼ざめたミロが心配そうに覗き込む。どんな宝石よりも美しいと思っているカミュの目がどうなってしまうのかと思い、気が気ではない。
「医者? こんなみっともない目を人には見られたくないし、誰かに会うのも嫌だ。そのうちに治るだろう。」
「そんなこと言ってる場合か!ほっといて、もっと悪化したらどうするんだ!失明なんかしたら最悪だぞ!」
「それはそうだが、眼球に異常はなさそうだ。眼瞼 ( がんけん ) すなわち瞼 ( まぶた )の問題だろう。」
「そんなに落ち着いてる場合か!俺は治らなかったときのことを言ってるんだよ!ともかく朝飯を済ませたら病院に行くからな!なんなら今すぐ救急車を呼んでもらうか?!」
「緊急性の低いことで救急車を呼ぶのは控えるべきだ。」
「じゃあ、タクシーに決定だ。ともかく朝食は部屋に持ってきてもらうように電話するからな。」
鏡に顔を近付けてそっと指先で瞼をつついているカミュを残して、ミロが電話をかけにいった。

「ますます腫れてきたんじゃないのか?やっぱりよくないぜ。」
「うむ……食事が届くまで横になっていよう。なにをする気も起こらぬ。目が気になって仕方がない。」
奥の間にカミュが引き取って30分ほど経ったころ、美穂が食事を運んできた。これまでにも何度か部屋に配膳してもらったことはあるが、いつもなら二人揃ってきちんと座っていて挨拶をするのに、今朝はミロ一人なのが普段と違っている。朝食といっても品数は多く、廉価の宿の夕食にゆうに匹敵するほどの献立なのはいつものことだ。配膳を終わった美穂が小鍋仕立ての鮭の粕汁のコンロに火をつけた。
「では、のちほどお膳を下げに参ります。」
「ああ、ありがとう。」
お辞儀をした美穂が部屋を出ようとしたとき、ミロが、「ああ、そうだ!」 と呼び止めた。
「フロントに眼帯ってあるかな?」
「眼帯ですか?はい、ございますが。」
「一つ貸してもらおうかな。それから食事が終わったらタクシーを頼みたい。」
「はい、かしこまりました。」
「どこか眼科のいいところってある?このあいだ入院した病院に眼科ってあるかな?」
「あの、どなたが眼科にかかられるのですか?」
「うん、カミュがちょっとね……今朝、まぶたが腫れちゃったものだから。」
「あら!もしかして、蚊に刺されなさったのでしょうか?」
「え? 蚊に?」
まぶたを蚊に刺されるというのはミロには初耳だ。乾燥した土地柄の聖域では蚊の絶対数が少なすぎて、ほとんど刺された経験がない。故郷のトラキアの記憶も遠のき、まぶたを刺されたらどうなるかなど知るはずもない。
「先週、うちの厨房でも、寝ている間に蚊に刺されて瞼が酷く腫れたスタッフがいまして。そんなことになりましたら、私どもでしたらお客様の前に出ます関係上、お休みをいただかなくてはならないんですけれど、裏で働いていますので本人は恥ずかしがりながら出勤してましたの。でもひどく腫れてたいへんそうでしたわ。」
「ふうん、そうなんだ!カミュのもそれかな? 医者に行ったほうがいいと思ったんだけど。」
「蚊でしたらそのうちに治りますけれど。 かなりおひどいのですか?」
「う〜ん、そう言われても比較の対象がないからな。 あれがとくにひどいのかどうか、よくわからないな。 蚊なら、ほうっておいてもそのうちに治るってことだよね。」
「はい、妙に虫さされの薬をつけたりしますと目に沁みてたいへんなことになると聞いたことがあります。」
美穂にカミュの目の様子を見てもらえば話は早いのだが、あのカミュが腫れ上がったまぶたを美穂に見せるはずもないし、美穂のほうでもそのあたりは心得ていて、見せて欲しいと言うこともない。
「あれって蚊かな?それなら安心だけど。」
「蚊に刺された痕がありませんでしょうか?」
「なるほど。ちょっと見てみよう。」
煮立ち始めた粕汁を気にもせず、ミロが奥の間に入っていった。 襖の向こうで声がする。
「今の話、聞いただろ。ちょっと見せてみろ。」
「ん…」
「え〜と…」
美穂が待っていると、少しの沈黙のあと、ミロのほっとしたような声がした。
「ああ、これだ!わかりにくいけど、刺された痕がある。蚊だよ、蚊!ふうん、こんなに腫れるんだ!」
「それならよかった。」
美穂にもやっと今朝初めてのカミュの声が聞こえて、笑いながらミロが出てきた。心配そうな色は消えている。
「おかげさまでほっとしたよ。部屋で蚊に刺されたことがなかったから気付かなかった。じゃあ、タクシーは呼ばなくていい。でも、食事は治るまで部屋でいいかな。誰にも見られたくないらしいし。」
「はい、大丈夫でございます。完全に腫れが引くまで、どうぞこちらでごゆっくりなさってくださいませ。」
「ほんとに手間をかけてすまない。 あ、それから、今日と明日の家族風呂の予約はキャンセルってことで。」
「はい、かしこまりました。それから、玄関の出入りのときに蚊が紛れ込んだと思いますので、玄関の外側にハーブの虫除けを置いておくようにいたしますが、それでよろしいでしょうか?」
「ハーブっていうと……ああ、蚊取線香だ!除虫菊の!」
ミロの顔が輝いた。レトロな蚊取り線香は憧れなのだ。
「いえ、最近は無臭で効果のある自然な成分を使った便利な製品が出ていまして、そちらのほうが煙も出ませんのでよろしいかと。」
すると襖の向こうからカミュの発言があった。
「すまないが、もし可能なら、この機会に蚊取り線香を使ってみたいのだが。」
普通の声のように聞こえるが、ミロにはカミュのワクワク感が手に取るようにわかる。
「やっぱりそっちのほうがいいだろ。俺もそう思うんだよね。」
嬉しそうに賛同したミロがさらに美穂に注文をつけた。蚊取り線香には、なくてはならないものがある。
「で、ぜひ豚の蚊取り線香置きで頼みたい。あれって、ちょっと憧れで。」
「あら〜…豚の……はい、かしこまりました。ご用意させていただきます。」
にこにこ笑った美穂がお辞儀をして出て行った。カミュが襖を開けて席に着く。北海道も九月を迎え、卓上には秋の味覚が美しく並んでいる。粕汁の火が消えかけているのはご愛嬌だ。
「食事には面倒をかけるが、蚊取り線香を使えるとは思わぬ収穫だ。」
「昔の普請と違って、部屋の中じゃ、かなり煙いらしいからな。玄関の外がちょうどいい。」
「何時間で燃え尽きるのかも知りたい。」
「縁台も持ってきてもらうか?浴衣を着て縁台で枝豆をつまみながらビールを飲むっていうのがいかにも日本の夏らしいし、蚊取り線香がますますムードを盛り上げる。それも豚の置物だぜ、理想的だ。」
富士山と桜、ビールと枝豆、縁台と蚊取り線香、このクラシカルな組み合わせがミロの考える理想の日本なのかも知れぬ。
「蚊取り線香が使えるのは嬉しいが、このまぶたが気になってならぬ。」
「う〜ん、そこのところが問題だな。明日には治るかな?」
「治るまでは寝ていることにする。原因がわかったのはいいが、これでは目を閉じているのがいちばんよい対処法だろう。」
「お前だけが寝てるんじゃ退屈だから、俺も一緒に寝ていい?」
「……なにか下心がないか?」
「ないよ、そんなものは。俺はいつも上心だけ♪」
「怪しい。」
「そうか?ほら、この秋鮭が美味いぜ。」
「うむ。この菊と帆立の酢の物もよい。」
北海道の秋がすぐそこまで来ている。

                                     





      ずっと前から書きたかった蚊取り線香。
       同じ形の渦巻きを組み合わせてある合理性も評価が高く、ミロ様とカミュ様のお気に入りです。
       時代を反映してこんな新顔も。 ⇒ こちら

      「うわっ、青りんごって俺っぽい!」
       「海風とははたしてどのような香りが?」
       「氷イチゴは、クールで甘酸っぱい香り………う〜ん、決めた!今夜はこれをつけてお前を抱くからな!」
       「えっ!」


      冗談抜きで、どんな香りか試してみたいです。
      「俺は冗談は言ってないが。」
        「………」

       
この話でいちばんどきどきするところは、襖の向こうの二人の会話を美穂ちゃんが聞いているところです。
       美穂ちゃん、なにを考えたんでしょう??
       も、もしかして悟ったとか? ← 有り得ません


                                          蚊取り豚の由来は ⇒ こちら