踊るサテュロス IN 表慶館


国立科学博物館を出た私たちは、歩いて数分の東京国立博物館にやってきた。
正門前にはかなりの数の人間が列をなしているのが見え、日本人の展覧会を好む気質を如実に現わしている。
「ふうん、ずいぶんな数だな!これがみんなサテュロスを見に来たのか?」
「そうとは限るまい。 ここの中には、主要な建造物が5つあり、そのそれぞれで独自に美術品を公開している。 我々の見に来た『 踊るサテュロス 』 は、その一つに過ぎぬ。」
そう言いながら、右の窓口がサテュロス展のチケット売り場だと見極めた私は手早く購入してミロと構内に入った。
構内はたいへんに広く、噴水と、日本風に端整に刈り込まれた植え込みの向こう正面には、昭和13年に当時の天皇の即位を記念して建てられたという本館がその威容を見せている。
「ふうん、あれはなかなか大きいな! 教皇庁くらいはあるんじゃないのか?」
「建築様式は異なるが、規模としては似たようなものだろう。 明治15年に開館した旧本館は、大正12年の関東大震災で大きな被害を受け、その後立て直されている。 だが、これから我々が行くのはあそこではなく、左側の表慶館だ。」
私は本館の左手前にある、もっと小規模の建物を指差した。ネオ・ルネッサンス様式の二階建てのこの建物は、中央部に高い丸ドームを持ち、左右対称に翼が伸びている。全面にせり出した玄関部分の左右には高い台座から一対の獅子がこちらを睥睨しているのだ。
本館の左奥の平成館に向かってゆく人並みは途切れなく、日本の有名な仏像が特別公開されている展覧会に向かうものと思われた。一方、表慶館に向かう人はそれほど多くはなく、私をほっとさせる。 人込みは好まぬので、落ち着いた環境でサテュロスを鑑賞できれば、それにこしたことはない。
「あれ? 正面から入るんじゃなくて、左側から行くのか? ふうん、ここにも小さい入り口があるんだな。」
私が率先して表慶館に入り、ミロがあとに続く。 左右に分かれて小さい円を描きながら登っていく階段は上り詰めたところで合流する構造になっているらしい。 上まで上がるとミロが私とは反対方向の階段を上がってきて上で向かい合う形になったので、「え?」 という顔をすると、「 面白いだろ?」 とにやりと笑うのだ。 いつまでたっても子供のようなことをするのがミロなのだ。
階段室の次の小さい区画では絵葉書やステーショナリーグッズをささやかに販売しており、その次の小部屋ではサテュロスの二分の一スケールのフィギュアが置かれ、見学者が自由に触れられるようになっている。 これはおそらく、目の不自由な人間のためのものと思われた。 壁にはサテュロスの各部の写真が飾られて解説がつけられている。 日本人はみな熱心で、サテュロスを見る前に、この掲示物を一つ一つ丹念に読んでいるのだった。
「おい、カミュ、あそこにあるぜ!」
ミロが掲示物の写真には目もくれずに奥の部屋を指差して目を輝かせた。
むろん、この部屋に入ったときから、正面奥の部屋にサテュロスが展示されていることはわかってはいたのだが。 なにしろ人々の頭の上ほどの高さに、後ろ姿のサテュロスが見えているのだ、それに気付かぬ私ではないのにミロは親切に私に注意をうながしてくれる。 私としては英文の説明をもう少し読みたかったのだが、ミロとともに奥に進むことにした。

素晴らしかった!
2000年の深い眠りから醒めたサテュロスが私の前にその美しい姿を見せている。
その場所はほの暗く、外から見えていた丸ドームの真下なのだろう、円形の部屋の中央に展示されたサテュロスは恍惚の表情を浮かべながら宙に浮いて、まさに踊っているようだった。
はるかに見上げる高い天井は、小さいステンドグラスの丸窓から光を落とし、二階部分の窓からも内部の円形バルコニー越しにやはり外部からの自然光を取り入れているのだ。
サテュロスには近代的な四角い壁面の部屋より、このような古色に満ちた空間がよく似合う。 私は日本人の美意識を再認識し、我がギリシャ文明の優れた遺産であるサテュロスにかくも素晴らしい場を用意してくれた関係者に敬意を表する。
人々は、サテュロスの周囲をゆっくりと巡りながら、思い思いに見上げ、溜め息をついて見惚れているのだ。 さざなみのようなささやき声がさほど広からぬ円形の空間を満たし、私はその中に身をゆだね、快い感動に浸っていた。
ミロも感動したのだろう、部屋に入って 「 ほぅ!」 と小さく声を上げたあとは、他の日本人と同じくゆっくりとサテュロスの周囲を歩きながら、見惚れていたようだ。
やがて、サテュロスを堪能して部屋を出るときに、私に並んだミロが
「素晴らしかった! 実にみごとだ、来てよかったな。」
と感に堪えたようにささやいてきた。
「うむ、実にすばらしい!」
答えた私は、階段を下りる間際に今一度振り返らずにはいられなかった。
サテュロスは微動だにせず、髪をなびかせ美しい姿態をみせている。 視線を戻したとき、やはり振り返っているミロの横顔に私ははっとした。 そんなはずはないのに、どことなくサテュロスを思わせるものがあるのだ。 そのほんのわずかの変化に気付いたのか、ミロが
「ん? どうかしたか? 」
と聞いてきた。
「なんでもない。」
そう答えると、私は外の光の中を歩き出す。 多すぎはしない数の日本人が、私たちとすれ違い、次々とサテュロスに会いに中に入ってゆく。
「今日は、いい日だった。」
そう言うと、
「ああ、俺もだ。」
大きく頷いたミロが楽しそうに笑った。