畳替え


「ふぅ………こいつは寒いな!」
離れの玄関を出たミロが身震いをした。
「今朝の気温は4度、夜中には2度まで下がったようだ。」
「この秋一番の冷え込みってわけか。 もっともお前にはこのくらいの寒さは春風のようなものだろうが。」
北海道の秋の訪れは早く、離れの暖房は一日中途切れることはないが、食事処に行くたびに触れる外気はことのほか冷たいのだ。
「シベリアの寒気は北海道とは比べ物にならぬ。 私にはここの冬がやさしく思える。」
「そうだろうな。 でも俺はフトンから出るのが苦痛だよ。 いや、たしかに部屋は暖かいからいいんだが、気分的にちょっとね。」
お前をふところに抱いている暖かさの魅力の前には暖房の暖かさなんて意味がない、と言おうかと思ったミロだが、そのときにはもう食事処の暖簾をくぐっている。

   今はやめておこう
   朝食前にそんなことを言ってもカミュに睨まれるだけだからな

いつもの席に着くと、間をおかずに美穂が熱い味噌汁を運んできた。
「おいしそうだな! 今日のはなに?」
「帆立貝の稚貝でございます。 よろしければおかわりをお持ちいたします。」
「どれどれ♪」
一口飲んだミロが目を輝かせる。
「ああ、いいね! 貝の出汁が効いて実に美味い♪」
「貝もやわらかくて甘い♪」
上品に貝柱を口にしたカミュも、いかにも感心したように頷いている。
「朝から食欲が出るね、なんといっても北海道は食べ物が美味い! そうだ、今度ジンギスカンに行かないか? 牧場で従業員の親睦をやるらしくて、俺たちにも声がかかってる。」
「ジンギスカンは老師がおいでになったとき以来だ。 それもよかろう。」
「じゃあ、決まりね! 今日は馬に乗りに行くからちょうどいい。 参加するって言っておこう。」
ミロが白い小鉢に箸を伸ばす。
「これは………ああ、牡蠣の佃煮だ。 俺はこれが好きなんだよ♪」
ふっくらとした牡蠣が あっという間にミロの胃の腑におさまったところに美穂が焼きたての銀鮭を運んできた。 まことに秋の北海道は美味しいのだった。

離れに戻る途中でフロントにいる宿の主人が呼び止めてきた。
「先日 お知らせいたしました通り、今日はこれから畳替えをいたしますので、ご迷惑をおかけいたしますがよろしくお願いいたします。」
カミュが頷き、主人が奥の事務室に戻っていった。
「そういえばそうだったな。 どうせ牧場に行く日だったからとくに気にもしなかったが、床の張替えみたいなものかな?」
「カーペットも古くなれば取り替える。 日本人もきれい好きゆえ畳替えをするのだろう。」
「俺の目にはとてもきれいに見えるがな。」 
最初に日本に来たときに畳の部屋で靴を脱ぐ習慣に赤面したのも、今となっては愉快な思い出だ。
こうして二人が宿を出てすぐに、離れに職人が入り始めた。


「お帰りなさいませ!」
乗馬を堪能してきた二人が玄関を入ると美穂の元気な声が出迎えた。
「ああ、ただいま! もう部屋に入れる?」
「ええ、10分ほど前にすっかり終わっております。 きっと驚かれますわ!」
「え? 驚く?」
「新しい畳は特別ですのよ、今夜はきっとよくお休みになれると思います。」

   ふうん………十二宮の大理石の床とは違って、畳といえば半分はフトンみたいなものだからな
   新しいフトンか………おっと、ここで余計なことを考えるのはやめておこう

鍵を受け取って離れの玄関を開けたときだ。
「あれっ?」
「この匂いは…!」
「それに色が違う!」
玄関を上がってすぐの二畳の畳の色がなんともいえぬ緑色で二人の目を惹きつける。
「新しい畳ってこんな色なのか? すると今までのは古くなって褪色していたのか?」
「ふむ………それに香りが…」
身をかがめたカミュが深く息を吸い込んだ。
「今までに嗅いだことのない香りだ……なんともいえぬ……」
奥に進むと八畳と十畳の続き間は襖が開け放たれて、真新しい床の緑が目に沁みるようなのだ。
「ほぅ………!」
「なんともいえない眺めだな! 今までとは違う部屋のようだ!」
畳の緑は柔らかみを帯びたやさしい色で、部屋に立ち込めている不思議な匂いとともに、二人に日本の新たな一面を知らしめた。

夕食の席に座っていると、ミロの後ろのテーブルに遅れてやってきた新顔の客の話が耳に入ってきた。
「 部屋の畳を先週変えたばっかりなんてついてたな! 女房と畳は新しいほうがいいというが、なるほどと思ったよ。」
「そいつは奥さんはないしょにしておいたほうがいいんじゃないのか?」
「もちろん言わないさ、うちも来年は銀婚式だからな。」
中年の二人の男性客は笑いながら銚子を傾け始めた。

   ふうん………女房と畳ね………

蟹の殻を丁寧にはずしていたカミュにはこの話は聞こえなかったらしい。
くすっと笑ったミロが殻に入ったままの雲丹を銀のスプーンで一すくい口に入れる。 たちまち広がる濃厚なねっとりとした舌触りに魅了されるのはいつものことだ。
「これこそ自然の味だな! ほんとに日本にきてよかったよ♪」
「うむ、蟹も雲丹も素晴らしい♪」

   ああ、そのとおりだ!
   どっちも硬い殻に包まれてるのに、それを剥くと中身はとろりと甘くてこたえられないからな………
   その味わいは、剥いた者にしかわからないんだよ♪

充実した夕食を終えた二人は離れへと向う。
「夕張メロンも美味しかったけど、このあとのデザートも楽しみだな。 きっとメロンより色づいてると思う♪」
「え………」
玄関の鍵を開けると畳の匂いが濃く立ち込めている。
「やっぱりね♪」
先の期待に胸を膨らませながらミロは大きく息を吸い込んだ。


                                       

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