タ ク シ ー  その前に 

知らないところを旅して新しいものに触れるのもいいが、よく知っている場所を再訪して、ああ、やっぱりいいな、と思うのもやはり旅の楽しみの一つだろう。
「東大寺は好きだよ。この広々感がなんとも言えん。」
「何度来ても満足感がある。古代のおおらかさを感じる。」
台風が接近していたが登山やマリンレジャーと違って古都散策になんの危険もあるはずはなく、多少の雨を気にしていては聖闘士は勤まらない。

「ちょっとすごいかも。」
「雨の古都ではなく豪雨の古都だな。」
しかし東大寺から興福寺に回り、お気に入りの阿修羅像をゆっくり鑑賞したあとで京都に戻った俺たちを待っていたのは車軸を流すような雨だった。
「いまどき車軸を流すような雨とは言わぬだろう。それは日本が荷車や大八車をつかっていた時代の言い回しだ。」
「じゃあ、なんて言うんだ?」
「篠つく雨では?」
「この京都駅で?どちらかというと嵯峨野や嵐山にふさわしい形容だな。」
篠つく雨とは、矢の材料にも使われる細くてまっすぐな篠竹が地面に突き刺さるような勢いで降る雨の形容だ。
俺は上を見上げた。細かな雨が降ってくる。
斬新な造りで知られるここ京都駅ビル内側の大空間は複雑な階段やデッキが縦横に組み合わされていてかなり高い位置に複数の大きな開口部があるのが特徴だ 。 普段はそれでもいいのだが、今日のような荒天だとそこから雨が吹き込んで来る。低い窓ならすぐ近くの床が濡れるだけだが、ここのようにとんでもなく高い位置にあると 、風に乗った雨粒は巨大な吹き抜けの空間を複雑な気流に乗って漂い、細かい水の粒子となって予想もしない奥まった場所まで飛んでくる。
「設計ミスだな。」
俺があっさりと切って捨てると、
「水の性質をもっと考慮すべきだ。」
とカミュが補足する。
「一年中観光客であふれるこの駅で、年に何回あるかは知らないが大雨の日にこんな有様ではまずいな。」
いまさらあの部分を塞いだりガラスを張るわけにはいかないのだろうが、京都駅、思わぬ誤算である。
「ええと電車は………ふうん、32番線だそうだ。とんでもないな。」
今夜の宿は京都府南丹市(なんたんし)美山町だ。付近に茅葺き屋根の家が現役でまとまって残っているのを知ったカミュが選んだ宿で、カミュの意志を尊重する俺も一も二もな く賛成した。
「どこで降りるんだっけ?」
「この電車で園部まで行き、そこで次の電車に乗り換えて二つ先の日吉からバスで50分だ。」
「50分とは乗りでがあるな。」
山あいの道を川に沿って進むのも楽しかろうと思ったのだが、その考えは甘かったようだ。

電車が京都を離れてからだんだん雨脚が強くなってきた。窓に当たる雨が斜めの筋を引いて後方に流れ落ちていく。その筋もすぐに水平に近くなってきた。まだ夕方だというのに 空はかなり暗い。
「次の園部で乗り換える。」
カミュがそう言ったとき、
「次は園部〜、園部です。お客様にお知らせいたします。本日は台風の影響により次の園部から日吉に向かう電車は運休となりましたので、たいへん申し訳ありませんが園部より 先にお越しのお客様は次の園部で30分あとに参ります電車をお待ち下さるようお願い申し上げます。」
とアナウンスが流れた。
「えっ!おいっ、いまなんて言った?」
「私たちの乗るべき電車がないと言ったような気がしたが!」
耳を澄ませてもう一度繰り返されるアナウンスを聞いてみると、やはり電車がないという。
「じゃあ、どうするんだ?バスはこの二つ先の駅から出るんだろ?もしかしてどころか、確実に間に合わないんじゃないのか?たしか最終じゃなかったか?」
「確認してみよう。」
園部でほかの乗客に混じって電車を降り、改札口でカミュが駅員に幾つかの質問し、さらに宿に電話をかけた。
「どうだった?」
「やはりだめだ。もうバスはないそうだ。」
「とすると、もしかしてタクシー?」
「もしかしなくてもタクシーだ。」
バスで50分の行程をタクシーで行くっていうのはまったくの予想外だ。俺たちはたいして気にしないが、一般的には料金が高額になることが予想されるので冗談ごとではないだろ う。
「バスで50分かかるところをタクシーで行くと料金はどのくらいなんだ?全然検討がつかないが。」
「私にもわからない。どちらにしてもタクシーに乗るしかないだろう。」
「そもそもタクシーなんかあるのか?かなり小さい駅だし、ほかの客が乗っていっちゃったりして。なかなか戻って来なかったら食事の時間に間に合わなくて迷惑をかけるかもしれないな。」
不安を感じながら階段を降りてみるとあいかわらずのたいへんな豪雨だ。幸い、駅前の小さい広場には黒いタクシーが一台だけ停まっていて客待ちをしているようだが、いかんせん、そこまでは激 しい雨の中を10メートルくらい濡れていかなければならない。なぜ屋根がないのか疑問だ。
「少しおさまらないかな。」
「この降りでは無理だろう。走るしかあるまい。」
「じゃあ、行くか!」
こんな日常の雨に対してはカミュも小宇宙を使わないし、俺も期待はしない。濡れるときは濡れるのだ。 意を決した俺たちはカバンを抱えて一気にタクシーに駆け寄り、窓を二、三回叩いて居眠っていたらしい運転手を起こすとぱっとあいたドアから恐ろしい早さで飛び込んだ。
傘?そんなものを挿していたら畳む間にずぶ濡れになってしまうに決まっているから、挿さないほうがましだろうという判断だ。
「美山町の自然文化村までお願いします。」
「河鹿荘ですか?」
「そうです。」
こんなに長距離の客は滅多にいないのかもしれない。すっかり眠気の覚めた運転手がエンジンをかけた。 これで安心と思った俺が軽口をたたきたくなるのもいつものことだ。
「水もしたたるいい男だと思わない?」
「またそんなことを。」
カミュが相手にしてくれないので、もう少し踏み込んでみる。
「いいよ、そんなことを言うんなら今夜はしっぽりと濡らしてやるから。」
すると、ここまではギリシャ語だったのに、カミュがいきなり日本語に切り替えた。 せっかくの冗談も強制終了である。

   いいさ、この続きはまた今夜に…

くすっと笑って俺も話に加わっていった。