其の二  もう一つの逢瀬


「まあ、そんな恐ろしいことを…!」
身震いした魔鈴がアイオリアにしがみついた。 人の話に聞くだけでも恐いのに、なんとこのアイオリアが少将と二人きりであの一目見ただけで魂も吸い取られるという噂の百鬼夜行に対峙したというのである。
「よくもまあ無事で…」
褥の中で絶句したきり言葉も出ずに震える魔鈴をアイオリアがやさしく抱きしめる。
「大丈夫さ、なにも心配することはない。 若君はたいそう腕利きであられるし、この俺も若君ほどではないが、大納言家にこの人ありとまで言われるくらいの腕はある。 寄せ来る妖怪どもを片っ端から片付けるのはわけもないのだ。」
実際にはほとんどの妖怪が逃げ惑うばかりで、向ってきたのはほんの二、三匹なのだが、このくらいの誇張はかまわぬだろうと思うアイオリアなのだ。
いくら腕があっても、そうそう百鬼夜行に出会えるというものではない。 ことに、先月、安倍清明が御所の北東の角に現われるという百鬼夜行を調伏退散させてからは、さしもの百鬼夜行もその怪異の姿を現すことがめっきり少なくなり、こんな様子では遭遇することもあるまいと主従で残念がっていたところだったのだから、今夜の首尾はまことに上々というものだ。

「清明殿にはこのたびはたいそうなお働きで。」
「うむ、それはよいのだが。」
「なにかございましたか、若君?」
「清明殿が百鬼夜行を退治なされたゆえ、その噂が妖怪どもに知れわたったのか、恐れをなしたらしく他の怪異までこのごろはとんと聞きつかぬ。 これでは腕を奮いたくともなんともならぬではないか。」
「それは残念でございますな。 なあに、そのうちにほとぼりが冷めましたら、またぞろ出て参ります。そのときには若君の腕の奮いようもあるというものでございます。」
都に名高い陰陽師と張り合おうという少将の心意気が、乳兄弟であるアイオリアにはまことに頼もしい。
「それにしても、いつなんどき怪異に巡り遭わぬとも限らぬゆえ、そのための準備はおさおさ怠りなきようにせねばならぬ。」
「と申しますと、弓矢と刀のことでございますか?」
「弓矢は大袈裟だが、刀はこの身から手放せぬ。それに…」
「…は?」

   なぜ若君が顔を赤くなさるのだ?
   これは気負いというよりは、照れておいでのようにお見受けするが………

「怪異は夜の闇に紛れて現われるものだ。 それゆえ今後も夜歩きを欠かすことはできぬ。 左様心得よ。」
「あ……これは気のつかぬことで。」
予想していなかったことを言われて吹き出しかけたアイオリアがうつむいて笑いをこらえているのを察したものか、
「ばかもの、笑うな! そちにも悪い話ではあるまいに。」
「は…」
たまらず吹き出すと、ついに少将も笑い出す。 周りにいた女房たちもこらえきれずに一斉に笑み崩れ、大納言家の東の対はまことに明るいのであった。

そんなことを思いだして一人で笑っていると、
「ほんとにお怪我がなくてなにより…」
妖怪の恐さもあるが、自分の恋人がかくも強いことにうっとりとなった魔鈴がほっと安堵の息をつきアイオリアの広い胸に頬を寄せる。
「この身に妖しのものの指一本触れさせてたまるものか! 俺の身体は俺一人のものじゃなくて…」
「あっ…」
「ふふふ………お前のものでもあるのだからな………魔鈴…」
「ア…アイオリア………」

   俺がこうしていられるのも若君のおかげといえる
   ほんとに足を向けては寝られんところだな

このところの毎夜の逢瀬で魔鈴もしごく機嫌が良い。
「朝までにはまだ間がある…さぁ、もっとこっちへ………」
やさしい口付けが与えられていった。

「アイオリアっ!すぐに参れっっ、これから河原の院に行く!」
少将から突然緊迫した声で呼びかけられたアイオリアは仰天した。 眠っていただけとはいえ腕の中には魔鈴がいて、それもお互いしどけない姿だったのだから慌てふためいて飛び起きる。
「は、はいっ、若君っ、いましばらくおまちを…!」
暗い中では少将の声がまるで耳元から響いたような気がしてどぎまぎするが、まさかそんなことがあるはずはなく、どうやら少将は外の簀子縁に立っているらしい。
忽然のことに恥じ恐れる魔鈴をなだめながら手早く身支度を整えて部屋を出ると、緊張した面持ちの少将がすぐそこにいた。
「いかがなされました、若君!」
「カミュが…姫が化け物にさらわれた!」
「なんですと!!」
「大きい声を立てるな、人に知れる!」
アイオリアをせかして歩きながら少将は手短に事情を説明した。
「では、姫君様は河原の院に?」
「化け物めが、そう云いおった。 姫がどれほど恐ろしい思いをしていることか!」
河原の院とは、六条坊門の南、万里小路 ( までのこうじ ) の東にあったという源融( みなもとのとおる ) の邸宅である。 陸前国塩釜の風景を模した庭園を造り、毎日海水を運ばせ塩を焼かせたというほど豪奢を誇ったが、その死後宇多天皇に献じられ、寺となった後に火災などにより消失し、今は荒れ果てて誰も近付かぬ場所である。
口さがない都人の噂では、夜毎に妖しの火が見えて、おどろおどろしい化け物が跳梁跋扈すると、もっぱらの評判なのである。 アイオリアの額に冷たい汗が浮かぶ。

幸い、ここから河原の院に行く途中には少将の住まう大納言邸がある。
「若君、これは急がねばなりませぬ。大納言邸で弓矢を持ち、馬を走らせましょう!」
「それからシュラも連れてゆく。人数がいたほうがよかろう。」
二人は急ぎに急ぎ、寝静まった大納言邸に着くと、少将が弓矢と松明を用意している間に、アイオリアはシュラを探し出し、三頭の馬に鞍をつけさせた。
「用意ができましてございます!」
「うむ、すぐに出立ぞ!」
屋敷の者を起こさぬように最初はゆるゆると馬を進め、角を曲がったところで三騎はいっせいに鞭を入れた。


                               ⇒ 続く