其の三  河原の院


都を南北に流れる鴨川のすぐ向こうに連なっているのは東山三十六峰だ。
その遥か高みに昇った十六夜の月が京の都を皓々と照らす。
月のない夜ならとてものことに馬を走らせることなどできはせぬのだが、昼のように明るいのを幸い、都人の深更の眠りを破ることも厭わず、人っ子一人いない都大路に馬蹄の音を轟かせ少将は馬を急がせる。

思えばほんの数日前に姉中宮の手元にあった源氏物語絵巻が少将のもとに届けられ、さっそく中納言邸に持ち込んでカミュと肩を寄せ合って見入っていたときのことだ。
なにしろ、父の紫苑が娘の入内のために選び抜いた料紙に当代の最高の絵師に描かせたというゆえある逸品なのだから、見ても見飽きるものではない。
美しい源氏の姿を見て感嘆の声を上げるカミュに  「おや? カミュは私のことより源氏の君の方がお気に入りなのかな?」 などと言いかけて困らせるのも一興なのだ。 おろおろとしているところに  「あとでゆっくりと確かめさせてあげるから…」 と笑いかけると、真っ赤になってうつむいてしまうのが得も云われず可愛いのだった。
桐壺、箒木、空蝉と順繰りに見ていって夕顔まで絵巻を広げたときにそのカミュが顔色を変えた。
夕顔の巻とは、源氏が荒れた院に恋人の夕顔を連れ出してひそかに愛していたときに女の怨霊が現われて夕顔をとり殺してしまうという話なのである。
源氏が夕顔とわりない仲になり、人目につかないところで仲睦まじく過ごしている情景に頬を染めていたカミュが、突然の場面展開に恐れをなしてあまりに怖じ恐れるのが気の毒にも可愛くも思われた少将は、震える華奢な身体を抱きしめながら、 「決してそんなところへは行かないから。 カミュは私が護るから。」 とくり返し言い聞かせたのだった。
涙を滲ませながら少将の袖を握ってこくこくと頷くカミュのいとしさに、当代随一の絢爛豪華な絵巻物を横に押しやり、なよやかな姫の身体を横たえて抱きしめていったのが遠い昔のように思われる。
そのときの寝物語に、夕顔を連れて行った院は六条の河原の院らしい、ということまで話したのに、その姫が鬼にかどわかされてまさにその河原の院に連れ込まれることなど誰が想像しようか。

夜の闇には怨霊が巣食っている。
住み慣れた屋敷内の暗がりにも物の怪が棲んでいる。

そう信じて疑わぬ都人は護摩を焚き、加持祈祷を行い、恵方を占い、鬼門を避け、それこそありとあらゆる方法を用いて災いが我が身に降りかからぬよう努めるものだ。
陰陽道に則り、どこへ行くにも方角を占い、触りがあると思えば一歩たりとも外へは出ない。 思わぬ災いや祟りを避けるために、日常生活の全てにわたって吉凶を占うのは当然のことなのである。
まだ若い少将といえども、無闇に物怖じする女子供ほどではないが、気に掛けないといったら嘘になる。 現に宵の口には百鬼夜行に遭遇しているのだから、現実的な災厄を避けるためにそれなりの用心は欠かさない。
カミュに逢うために中納言家を訪れるときも、方角を選んで道筋を選定するのは当たり前のことなのだ。 
もっともそんな煩雑な気配りはもっぱらアイオリアの領分で、当の少将は牛車に揺られながらカミュのやわらかい手触りや明日の後朝の歌のことを考えているばかりなのだった。

そんなことを思い出しているうちにも、行く手に目指す河原の院が見えてきた。
長い築地塀もところどころが崩れ落ち、長年手入れをされていない木々が鬱蒼と枝を伸ばしている有様は聞きしに勝る荒れようで、三人の背に悪寒が走る。
近付くにつれ馬が落ち着きをなくし、しきりに後戻りしそうになるのをなだめながら正面の門に辿り着いたときにはもう夜半を過ぎている。
往時の豪壮な面影を残している門構えも、ここまで荒れ果ててはかえって凄愴の気を宿すというものだ。 昼間でも近付く者は稀なのに、深更の今ともなれば犬の仔一匹見当りはしない。
「ここからは歩いてゆこう。」
三頭の馬を少し離れた木につなぎ、松明を持ったシュラを先頭に傾いだ門をやっと通り抜けると、そこは聞きしにまさる荒廃ぶりである。
「若君、足元にお気を付けください。」
「うむ、そちも心せよ。」
夜露に裾を濡らしながら道を塞ぐ草を払いのけつつ慎重に進めば、朽ちかけた牛車が傾いて丈高い草が中から生い茂り、その昔は華やかな装束に身を包んだ公卿が集ったであろう釣り殿もよどんだ池に半ば崩れ落ちて惨憺たる有様を呈している。
「これは………」
「噂には聞いておりましたが、ここまでの荒れようとは思いませなんだ!」
往時の華やかさが偲ばれるだけに、かえっておどろおどろしさが増すというものだ。
「若君、奥に灯りが!」
先をゆくシュラに指差されて目をこらすと、なるほど崩れ落ちた簀子縁の向こうにわずかな灯りが見える。
「あれかも知れぬ、急ごう!」
その昔は贅を尽くしたに違いない屋敷も今は見る影もなく、建物の中は御簾や几帳もちぎれ落ち、凄まじい荒れようなのだ。 ところどころの天井が抜け落ちて、凄絶なまでに冴えた月光が朽ちかけた床を照らしている。 極限まで張り詰めた神経が床を軋ませる互いの足音をことさらに耳障りなものにした。

   こんなところにカミュが…!
   どこだっ、どこにいる!!

少将の額に汗が浮かぶ。 
ほんの少しの風が吹いても気にかけるカミュがこのようなところに連れ込まれたら、ただそれだけで魂を消し飛ばせてしまうのではないかと思うと気が気ではない。 それに加えて、二人で読んだ夕顔の運命が頭をよぎる。
繰り返して言うが、魑魅魍魎の跋扈 ( ばっこ ) する平安の御世に生きる少将にとって、夕顔に取り付いた怨霊はまさに現実のものなのだった。
埃の絡んだ蜘蛛の巣を払いのけ、腐りかけた床板に注意を払いながらついに最奥の部屋にやって来たときだ。
「若君、あれをっ!」
アイオリアが叫んだ。
壁際にこれも古びた屏風があり、なんとその絵の中に一人の姫が伏している。 絵の中でその周りを取り囲んで責め立てているのは無数の恐ろしげな鬼どもなのだった。
「カミュ…っ!」
屏風の中からさめざめと泣く声が聞こえ、少将が思わず駆け寄ろうとしたときだ。
闇の中から忽然と現れたのは天井までも届きそうな巨大な鬼だった。 あたりの空気が一気に瘴気をはらみ、まがまがしい悪寒が三人を襲った。

                                   ⇒ 続く