其の四  鬼


「来おったな、少将!!」
あたりを圧する野太い声が響き渡る。 荒れ果てた河原の院で聞くそれはまさに鬼気迫るものがあり思わず身の毛がよだつのだ。
「都を騒がす不逞の鬼め! 姫を返してもらおうっっ!」
さして広からぬ部屋の中央に立つ異界の鬼の赤黒い巨躯を三方から取り囲んだ少将、アイオリア、シュラが刀を構え、殺気をはらんだ空気がびりびりと周囲を押し包んだ。
「かまわぬっ、切り捨てよ!」
少将の声に、シュラが裂帛の気合いで恩賜の聖剣エクスカリバーを放つと、こは如何に、鬼の体躯には毛の一筋ほどもかすらぬではないか。
「くわっ、くわっ、くわっ!!それしきの剣で、この身が斬れるものかは!」
「若君っ、彼奴の回りには結界が!」
「なにっっ?!」
天井から洩れ来る月明かりの中で目を凝らせば、なるほど、なにやら白っぽい靄のようなものが鬼の周りに立ち込めているのだ。
「おのれっ! その弓を貸せ!」
アイオリアの携えてきた弓は亡兄アイオロス遺愛の品で、黄金弓 (こがねゆみ) と異名をとる天下一の弓なのだ。
少将が渾身の力を込めて弓を引き絞り鬼の目めがけて放った矢は、しかし、白い靄の手前で撥ね返された。
「そんな物がこの俺に通用すると思うなよ! 貴様に受けた恨みを晴らすのは、今この時ぞ!」
「なにっ、この少将、鬼などに知り合いはおらぬ!」
「忘れたか!今はこの身はかくもあさましき鬼と成り果てつるも、人の身であったときには蔵人頭 ( くろうどのとう ) まで務めた藤原蟹盛ぞ!」
「なんと!」
その名を聞いた少将は愕然とする。 藤原蟹盛といえば、主上のお覚えもめでたく宮中の花形の公達であったものを、いつしかあやかしの術に心奪われ、密かに懸想していた女御の御身を呪法をもって穢さんとしたため、遠い蝦夷地へと遠流の身となったのではなかったか!

   この鬼があの蟹盛のなれの果てとは…!

少将の脳裏に在りし日の藤原蟹盛の水際立った公達ぶりが浮かぶ。
権勢を誇る藤原一族に身を置く蟹盛は従兄弟の魚盛と並んで宮中の花形ともてはやされ、文武両道に秀でた今を盛りの公達であった。 万事に男ぶりの良い蟹盛と物腰の雅な魚盛とが一緒にいると、それだけで場が華やぎ宮中の耳目を集めたものである。
去年の春の観桜の宴では、この二人が舞った青海波が帝をはじめ並みいる女御や殿上人の喝采を浴び、畏れ多くも帝から恩賜の袍を賜わったことはいまだ世人の記憶に新しい。
そのとき身につけていた袍は萌黄色青海波の地文様に群れ飛ぶ千鳥を数十羽刺繍してあり、 下襲にも洲浜に青海波の模様が描かれているというたいそう凝ったもので、人々の賛辞を集めたものだ。 桜の花びらの舞い散る中でのあでやかな舞姿のあまりの美しさを案じた嵯峨帝が、これほどの美しい有様では鬼に魅入られるかもしれぬゆえ修法をせよ、とひそかに命じたことが伝わり、ますますその令名が高まったことは少将もよく覚えているのだった。
そんな折である。 朧月夜の春宵に少将が後宮の警護で宿直をしていた晩のことだ。
子の下刻を過ぎて独りで見回りに歩いていた少将が宣陽門を過ぎて昭陽舎の手前で左に曲り、ふと前方の承香殿を見たときだ。 だれもいる筈のない承香殿の長局のあたりにうずくまった人影が見える。 怪しく思ってひそかに様子を伺うと、どうやらそれは若い男のようで、闇に紛れるような色目の直衣姿で膝元の小さい香炉になにやら焚きながら低い声で真言を唱えているようだ。 こんな時刻に面妖な、とそっと近付いて様子を伺うと、香炉の煙がわずかに流れてきて、どうやら髪の毛の焦げるような臭いがする。
これはもしや、人を呪詛しているのではないか思った少将がととがめだてしようとしたとき、すぐそばの戸が音もなく開いて誰かがふらふらとした足どりで出てきたではないか。
すると男が立ち上がりその人の手を引いて承香殿の裏手の細殿に姿を消した。 
一瞬は女房と逢引をしているのかとも思い後戻りしかけた少将だが、それにしては髪の毛の焦げる臭いが気にかかる。やはりこれはいかぬ、と考え直して細殿に近寄り聞き耳を立ててみることにした。
「長年の想いが叶い、これほど嬉しいことはござらぬ………さあ、もっとこちらへ参られよ…」
そめそめとしたささやきが聞こえ、やはりどこぞの公達と女房の逢瀬かと顔を赤らめた少将が戻ろうとしたときだ、聞き捨てならぬ言葉が耳を打った。
「この蟹盛、寝ても覚めても女御様のことが頭から離れませぬ。 思い余って女房の一人を口説き落とし御髪の一本を手に入れて闇の修法に走ったのも、これすべて女御様を抱き参らせて我が物にせんとの思い余った心がさせたことでございます。 かくなるうえはこの蟹盛にすべてをお任せになり一夜の夢を見ましょうぞ………」
あまりのことに息を飲んだとき、衣擦れの音と女の喘ぐ声がしてなにやらただならぬ気配である。
意を決した少将が音を立てずに戸を開けて踏み込んだとき、前方に折り重なる人影が見えた。

承香殿の女御といえば嵯峨帝の寵愛を受けて今を時めく美しい女人である。
のちになって大納言家から少将の姉である一の姫が入内して中宮になるまでは、嵯峨帝の君寵を一身に受けて時めいているのだった。 その女御に懸想して、あろうことか闇の修法に走って想いを遂げようとする蟹盛のあまりに身勝手な振る舞いが少将を慄然とさせる。
禁裏で抜刀するのは許されぬことなので素手でとらえねばならぬ。
細殿の闇の中で目をこらして後ろからそっと近付くと、男が女人に覆いかぶさりいままさに妖しげな振る舞いに及ぼうとしているではなかったか!ものも言わずに男の二の腕を掴み引きはがすようにすると 「あっ!」 と叫んで振り向いたその顔はまごうかたなき藤原蟹盛、今を時めく宮廷の寵児なのだった。
「なにをするかっ!」
「それはこちらの言うことだっ!恐れ多くも女御様の御身を汚したてまつらんとする非道な振る舞い、許すまじ!」
「おのれっ、その声は白羊大納言家の少将か! よくも我が恋を邪魔してくれたな、許さぬ!」
「許さぬとは片腹痛い!君恩を忘れた外道の振る舞いを見逃すわけには参らぬ!」
直衣も緩み烏帽子さえゆがんだ蟹盛は、けしからぬ振る舞いの現場をおさえられたこともあり分が悪い。 少将の気迫に押されて、もはやこれまで、と逃れようとするが、あっという間に少将に引き倒されてしまう。
すぐ側に落ちていた帯で暴れる蟹盛を後ろ手に縛り上げてほっとした少将がふとみると、白綾の衣の前が打ち乱れて夜目にも白い胸があらわになっている女御が、それでも顔だけはそむけて、ぼんやりと仰向けになっている。
見てはいけないものを見てしまいどきっとしたとき、花の唇から甘やかな吐息がこらえかねたように漏らされて少将の頭に血が昇る。
あわてて目をそらした少将はそのあたりに片寄せてあった几帳の端を長く裂いて蟹盛がにげられぬように縛り上げておいてから、女房たちの寝ている長局の戸を外からほとほとと叩き、顔見知りの口の固い女房を呼び出した。
不審顔で出てきた女房も、少将がことの次第を言葉を濁して話すと顔色を変え、例の細殿で胸を隠すこともせずしどけない姿で横たわったままの女御を見るに及んでことの重大さに魂を消し飛ばせたようだった。
「幸い女御様には、なにもお気付きにはなられなかったように思われる。 このうえは一刻も早く御寝所にお連れ申し上げ、何事もなかったように朝を迎えられるのがよろしかろう。」
噛んで含めるように言い聞かせると、真っ青になった女房がこくこくと頷き、
「女御さま、こちらへ参られませ。」
と恐る恐る声をかけると、
「はい」
と鈴を転がすような声が聞こえて、わき見をしていた少将をどきっとさせた。
顔を見ることは論外としても、御簾の奥深くに隠れた、帝の寵愛深い女人の声を聞くことなどあるはずもないのである。 その佳人のあられもない姿を一瞬とはいえ見てしまったことが空恐ろしく、少将は肝を冷やすのだが過ぎてしまったことはしかたがない。
女房には固く口止めしておいて女御を連れ帰ってもらうと、暗がりに転がしておいた蟹盛を引っ立てて、揺るがぬ証拠の香炉を取り上げ、少将もすみやかにその場を退いた。

翌朝になって父大納言の紫苑にことの次第を話すと少将の仕様を褒めたうえ、
「あとのことは任せよ。 そちは、このことは忘れるがよい。」
と言って少将を安心させる。 ほっとして下がろうとしたときだ。
「して、そちは女御様のお姿を見 参らせたか?」
どきっとして、
「いえ、なにも。」
素知らぬ顔で答えると、探るような目で見ていた紫苑がやがて頷き、
「さようか、ならばよい。」
と言ってくれたので、やっと東の対に戻れた少将は冷や汗をぬぐったのである。
数日して帝から蟹盛に 「 蝦夷の歌枕を見て参れ 」 との内旨が下り、蟹盛はなにも言わずに粛々と都を立ち退いていったのだ。


こうした経緯が蟹盛変じた鬼と対峙している少将の脳裏に浮かぶ。
「ええい、口惜しいっ! あのとき貴様が見逃してくれれば、今も主上のご寵愛を賜わっていたものを、よくも非情にも縄目を掛けおったな!」
「己が非を棚に上げて、なんの物言いぞ! 畏れ多くも承香殿にまで忍び入り、外法を用いて女御様をおびき出し、けしからぬ振る舞いに及ぼうとした貴様を捕らえずしてなんとするっ! 挙句の果てに鬼にまで身を落とすとは、なんと蟹盛、マンモス哀れな奴め!」
蟹盛の遠流についてはその経緯を知る者は口を閉ざしていたため世人の知るところではなかったのだが、姫の拉致に逆上した少将が口を滑らせ、かたわらで聞いたアイオリアとシュラも初めて知る事実に仰天したが、さらに怒り狂ったのは当の蟹盛変じた鬼であった。
「あのれ、少将っ!よくも我が秘事を言いおったな!!」
はっとした少将が身構えたときだ。
「喰らえっ、積尸気冥界波!」
少将の身が閃光に包まれた。

                                   ⇒ 続く