其の五  地獄


「若君っっ!」
シュラとアイオリアが叫んだときには、すでに少将の姿は消えている。
「貴様、蟹盛っ! 若君をどこへ!!」
「我が積尸気冥界波は、この世とあの世をつなぐ掛け橋よ! 一度通ったら二度とは戻れぬ!憎っくき少将めをとうとう地獄へ送り込んでくれたわ!」
巨躯を揺すった蟹盛が憎々しげに言い放つ。
「地獄だとっ?!」
「おお、そうよ!それ、そこの屏風の中も地獄よ。人の恋路を邪魔してくれた少将など、女と枕を並べて未来永劫苦しむがいいのだ!」
「おのれっ!!」
うそぶく蟹盛に歯噛みをするのだが、地獄の中ではとても手が出せぬ。
「さあ、今度はうぬらの番だ。まとめて始末してくれよう!」
蒼ざめた二人の額に汗が浮かんだ。

一瞬の閃光に包まれた少将がはっと気付くと、あたりには草木一本見当らず、荒涼とした風景が広がっている。蟹盛もいなければシュラとアイオリアの姿もありはしない。
「ここは…?!」
陰々滅々たる重い鉛色の空にはときおり赤味を帯びた閃光が走り、鼻をつく異臭は硫黄のものらしかった。息をするだけで胸苦しく頭の芯が重くなる。
河原の院でないことは明白で、さすがに途方に暮れて立ち尽くしたときだ。
「あぁっ!」
前方の岩陰から世にも悲痛な叫びが聞こえてきた。
「あの声は、カミュっ…!」
心臓を冷たい手でつかまれた思いがした少将が急ぎ駆けつけてみると、なんと無慮数十匹のおぞましい姿の悪鬼がおののく姫のまわりを取り囲み、てんでに襟をつかみ、着物の裾を引き、袖を握って離さない。
またあるものは少将が夜毎に愛でてやまなかった美しい黒髪をつかんで引き倒そうとしているではなかったか!
恐ろしさに息も絶え絶えの姫はもはや声も出せずに打ち倒れる寸前なのだ。
まの当たりに見たこの忌まわしい光景に少将は怒髪天を突き、全身の血が逆流する思いであった。
凄まじいばかりに増大した小宇宙があたりの空気を震わせる。
間髪をいれず群がる悪鬼の只中に躍り込んでゆき、手近な奴から縦横無尽に斬り払って姫を助けようとしたが、姫の背に取り付き、或いは美しい手を抱えるようにされては危なくてとてものことに刀は使えない。
それと悟ってすぐに刀を鞘に納めた少将は狙い澄ましたスカーレットニードルをピンポイントで放ち、姫の身体にまとわりついていた悪鬼どもを瞬時に片付けると、息も絶え絶えの姫をようやく抱くことを得た。
累々たる死骸はすぐに塵となって消えてゆく。
「カミュっ、カミュっ!私だっ、気を確かに持てっっ!!」
血の気を失った頬に残る涙の跡がせつなくて、力を失ったなよやかな身体がいとしくて、少将は姫を両手にかきいだく。
几帳の陰で少将の懐に抱かれていてさえ風の音にも怖じ恐れていたカミュが、その同じ今宵にかくも恐ろしい目に遭おうなどとは誰が想像するだろう。

   私のせいでこんな恐ろしい目に遭って………
   カミュ…カミュ………頼むから目を開けて……

震える手で抱きしめながらそっと唇を重ねてゆくと、長いまつげがわずかに震え、清らの瞳が開かれた。
「あ………ミロ…様……ミロ様っ…」
「そうだ、私だ………カミュ……もう心配はいらぬ。」
すがりつく手に安堵しながら、安心させるように微笑んだそのときだ。 
「果たしてそうかな?」
背後から威圧を含んだ声が響いた。

                                    ⇒ 続く