其の六  仇 敵


荒れ果てた河原の院に瘴気を帯びた陰風が吹きぬけ、仄暗い冥光が明滅する。
「シュラ、あれをっ!」
アイオリアが指差したのは、姫が封じられた屏風である。
先ほどまでは姫のみであったのに、今は打ち伏す姫を守るようにして剣を構えている少将がおり、その回りには数知れぬ悪鬼が死屍累々の山を築いているではないか。
「なんと、若君があそこに!」
「姫君様の御身は若君がお守りなされる。 我らはこの蟹盛をば倒さんっ!」
「応!」
ふたたび蟹盛に向うと、
「小癪な! 貴様ら如きににこの蟹盛を倒せると思うなよ! もう一度、積尸気冥界波をくれてやるわっ!!」
憤怒の形相凄まじく、蟹盛が閃光を放った。
「な、なにぃ〜〜っ!」
恩賜の聖剣エクスカリバーを正眼に構えたシュラが気を放ち、目くるめく黄金の輝きが積尸気冥界波を撥ね返したではないか。
「笑止! 我ら聖闘士に貴様如き俄か作りの鬼の技が二度通じると思うなよ。 貴様の技はすでに見切らせてもらった!」
唇に不敵な笑みを浮かべたシュラが中段に構えなおし、アイオリアが黄金弓をぎりぎりと引き絞った。


聞き覚えのある、しかし鬼気を含んだその声に少将の全身が総毛立つ。少将の肩越しに恐る恐るそちらを見やった姫が息を呑んで蒼白の面 (おもて) を伏せた。
少将がゆっくりと振り返る。
「貴様は、羅多中将…!!」
まがまがしい黒光りのする鎧を長躯に纏い、仄暗い地獄の陰火をまとわりつかせているその男こそ、数年前に畏れ多くも先帝と、今は嵯峨帝となっている当時の東宮とを呪詛したてまつり帝位簒奪を図った張本人なのだ。
「あの折、貴様には煮え湯を飲まされたが、蟹盛めを走狗に使いやっと地獄に引き込んでくれたわ!我が恨み、思い知るがよい!」
「天に唾する大罪人がなにを言う! 地獄に陥ちてなお執着を忘れぬとは情けなし!」
浅い息遣いを感じながら姫を背中にかばった少将が剣を抜いた。

このところ三代続けて禁裏には内親王の誕生がことのほか多く、親王は一人のみということが続き、周囲は東宮の無事の成長とその践祚を息を呑んで見守るという状況が続いている。
むろんその唯一の親王に不慮のことでもあれば皇統は傍系に移り、ことはおおごとになる。 いろいろな思惑はあるものの、直系の継嗣継承が望ましいことは言うまでもない。
それゆえ歴代の帝は何人もの心に叶う女御更衣を清涼殿に召して男皇子の誕生を願うのである。
その全てが好色に由来すると考えるのは間違いで、皇統の安泰は国家の安泰に直結するという政治的事情があるのだった。

今上の嵯峨帝がまだ東宮であったときに、清涼殿の北東の角の床下から呪詛の人形 (ひとがた ) が発見されたのは三年前のことだった。
秋の萩の宴に出るために源博雅が安倍清明と連れ立って弓場殿 (ゆばどの) の辺りを歩いていたときのことだ。
帝から直々に琵琶を奏するように求められた博雅に 「 是非に!」 と強要されて不承々々といった顔でついてきた清明が、ふと足を止めた。
「どうしたのだ?」
「博雅、撥 (ばち) を持っているか?」
「むろんだ、撥がなくては琵琶は弾けぬ。」
そう言って黄楊 (つげ) の撥を懐から出してみせると、傍らの萩の葉を一枚取った清明がそれを撥に乗せてふっと吹いたものだ。
舞い上がった萩の葉は空中で護符に変わり、くるくると舞った挙句に清涼殿の北東隅の地面に張り付いた。
「博雅、舎人を呼んでここを掘らせてみよ。」
すると、地中深くから明らかに呪詛のためと思われる人形 (ひとがた ) が出てきて大騒ぎになった。
「よくわかったな!」
「俺を誰だと思っている。 わからぬほうが、おかしいのだ。 この騒ぎで萩の宴もあるまいから、俺は帰るぞ。」
「えっ、おい、待てよ、清明!」
「そもそも帝の前で飲む酒など堅っ苦しいばかりで美味くもなんともない。 あの男と飲むくらいなら、屋敷で密虫と飲むほうがよっぽどいい。」
「おい、こら、清明! 帝と密虫を並べて考える奴がどこにいる!」
「並べてはおらん、密虫のほうがいいといっている。」
絶句する博雅の前で清明は踵を返し、あとには茫然とした博雅が撥を片手に残されたのだった。

さて、この人形を調べた結果、蔭で呪詛を行なっていたのが当時の近衛中将、羅多萬鐵と判明し、捕縛吏が羅多邸へ急行したそのなかに同じ近衛府の少将も加わっていたのだった。
二代遡ると親王の系譜である中将は、今上帝と東宮を除くと十分に帝位を望める位置にあり、大きな賭けに出たものであったが、都に名だたる陰陽師安倍清明の存在がその野望を砕いたのだ。
深夜に屋敷を取り囲まれた羅多中将は縛につくのを潔しとせず、家人を逃した後、自ら屋敷に火を放ち、何人もの捕り手を切り捨てた挙句に尚も捕らえようとする兵衛督を羽交い絞めにして火中に果てた。 燃え崩れる屋敷からかろうじて逃れた少将は、そのときの阿鼻叫喚の有様を忘れることはできぬ。
そして、いま目の前に立っているのはその羅多なのだ。

怖じる姫を後ろにかばいながら立ち上がった少将の総身から血の気が引いた。 見よ、羅多中将の右手に業火が集まりみるみるうちに巨大な焔となってゆくそれは、かの都の闇に跋扈する魑魅魍魎すらも震え上がらせたという羅多中将の秘儀、グレイテストコーションに違いない。
やむを得ず少将は姫から離れた場所にじりじりと移動する。 防ぐことがかなわなくてまともに喰らってしまえば、少将のみならず、後ろにいる姫をも巻き込む悲惨な事態が予想されるのだ。
「ほぅ、そんなにその姫が心配か。 案ずるには及ばぬ。」
羅多中将にも寛容の心があるのかと、少将が一瞬焦眉を開いたそのときだ。
「出でよ、是炉須!」
冷笑した羅多中将の声に応じて地を割って現れたおぞましき姿の悪鬼が姫の身をとらえたではないか!
「ああっ…!」
「姫になにをするっ!」
駆け寄ろうとした少将の足をとどめさせたのは羅多中将の冷徹な声だ。
「貴様があと一歩でも近付けば姫の命はない。 あの悪鬼の前身は唐渡りの毒蛙ぞ。 息を吹きかければたちまち姫は絶命するが、それでもよいか?」
「おのれっ、羅多!天を恐れぬ卑怯者め!」
命よりも大切に思ってきた姫を人質にとられた少将が悔しさに唇を噛み血を滲ませる。 地に押し付けられた姫の美しい喉もとを悪鬼・是炉須の骨ばった指が押さえ込み、恐怖に打ち震える姫は涙を滲ませて声も出ぬ有様である。
「卑怯だと? フッ、違うな。 貴様を片付けたら、姫もすぐに後を追わせてやろう。 のちのちまでいたぶるようなことはせん、安心してこの先の賽の河原に行くがよい。 都人の恐れて近寄らぬ河原の院とは、賽の河原の入り口よ。」
冷酷に言い放った羅多中将の右手の業火が高まった。

                                 ⇒ 続く