陶器山のニュース 2012年5月 
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<110524(火)午前10時 あまの街道同好会の有志が大阪狭山市役所に集合>
市長宛の要望書を提出 市議会議長宛の要望書を提出
「ツバサの森」の緑と景観の保全につき要望書を提出しました。

吉田市長宛の要望書は窓口の人権広報課(左の写真)、
西野市議会議長宛の要望書は議長室(下の写真)に提出し、受理されました。
要望書の趣旨は;
1.今熊4丁目665-1のうち、せめて地権者の持ち分4/10の面積でも樹木が
伐採されて禿げ山になる前に、数年がかりでも買収して頂きたい。
2.関係各位が、任期中のみの視点ではなく10〜50年先の
狭山を考えた政治を行って頂きたい。

平成22年に競売で大阪狭山市が取得した22,000平方メートル、昨年逆線引きにより
市街化調整区域になった130,000平方メートルの今熊の森が守られることになった事
は大いに評価いたします。 然し2004年に西山台11,900平方メートルと12,000平方メ
ートルが宅地化され、2006年に西山霊園南、大野西の28,000が宅地化されました。
そして今又、今熊4丁目665−7で大規模開発が進行中で、樹木の生い茂っていた
林は100戸以上の住宅密集地に変貌しようとしています。

大阪府は平成10年に景観条例を公布しておりますが、景観条例を制定していない本市
がこれ以上の自然破壊、景観破壊を食い止めるには、現実的には買収しかないと思う
に至りました。大阪府知事橋本氏が、生駒山〜岩湧山に至るダイヤモンドトレイルの
価値を認め、「直ぐ近くにある大自然。奈良、和歌山両県ともタッグを組み、観光資
源としてどんどんPRしたい」と意気込みを語っています。(朝日新聞 5月24日朝35面)

陶器山の遊歩道(あまの街道)は、そのダイヤモンドトレイルを常に狭山側の疎林を通し
て眺めながら歩ける、優れた景観を誇る歴史街道、自然探訪、理科学習の道であり、市民
の日常的健康対策の場でもあります。狭山の知識と力を結集して、貴重なこの森を守って
いきたいものです。折から今年は「国際森林年」。二酸化炭素200トンの浄化作用のある
この森を残せなかったら、狭山の恥でしょう。

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< 110521(土)14:30 大阪府議&市議 あまの街道視察(写真左) >
110521 造成工事現場の状況を見る府議と市議 110521 西山霊園南を視察した市議と府議
西山霊園南端の現場視察に向かう古川・密議・中野府議と小原市議(写真右)
陶器山のF地点四阿であまの街道同好会有志と大阪府議古川氏、中野氏、密議氏、
大阪狭山市議小原氏が集合し、造成地、次期造成地三都神社への参道〜西山霊園南端
まで一緒に歩き、"成る程、狭山の大事な宝だ"と認識されました。

< 110519  坂本充元府議をあまの街道同好会の有志が訪問 >
IMG src="sakamoto.jpg" align="center" hspac"20" alt="110519 坂本充元府議宅で">
坂本氏は昨日堺市役所で竹山市長と面会され
建設局公園緑地課長安永氏、環境保全部環境総務課長米田氏も同席され、
あまの街道の環境問題に付き意見交換された。堺市も陶器山の隣接地を有し、他人事ではな
いので充分念頭に置き、後日 あまの街道同好会とあっても良いと話された由。坂本氏は、
「選挙後 吉田大阪狭山市長にあってますか?」と言われた。。。。

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< 110519 陶器山の緑のトンネルが完成しました >
緑のトンネル
但し、大野台7丁目沿い(J〜K地点)と造成中の今熊1丁目(E地点)の朝日の直射に
炙られる”地獄通り”を除いて。。。。。。五月の風が吹き抜けて森の遠近で鳥たちの囀
りがこだまする。ミツバツツジに続いてウツギ、ネジキ、栴檀、紫式部(?)の花模様。
あれはヤマボウシか・・・・・?ウメモドキはまだか・・・・?陶器山で今緑と風と鳥た
ちの壮大なシンフォニーが始まる。トトロの森のメイチャンのように、「ワーッ!」と叫
ん駈けてみる。アハハハハハ〜

< 110516 ツバサの森の役割 >
新緑がモコモコと湧き上がるツバサの森 西室池を挟んで今熊市民の森(110515)
このささやかな池の水は狭山池の流路から外れた下今熊の田畑の生命線でしたが下流域の
宅地化が進み灌漑用という役目を終えようとしています。池の周りは沢山の稀少種が群生
し、80数種の鳥たちのコロニーを形成していました。木が伐られ、下流域が明るくなっ
たと言う声。しかし、この風景は稀少種達の挽歌でもあります。朝日の直撃を受ける早朝
散歩はあまの街道沿と三都神社への下り口沿いの疎林がなければ地獄の下今熊通りになっ
てしまいます。せめて街道沿いと下り口添いの疎林は残して欲しいものです。

110516 陶器山のグリーンシャワー
4月の雨をタップリ受けて、あまの街道は萌葱色に輝いています。
5月に入り、日一日とその色は微妙な変化を見せ鳥たちの動きも活発なような。
初夏〜夏への絶妙な移ろいが今。

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< 110516 地権者代理人上設計 淺野社長と面会 >

地権者と市役所の感情的な齟齬の原因は 数年前に遡る。1.地権者の言い分は
現造成地の南に50数戸が建ったとき、 あまの街道沿いの緑を残すべく協議。
残せるだけ残させて、 ノリメンを雀の涙ほどに買い叩かれたーと言うのが地
権者側の対市役所感。2.市役所の言い分地権者は、値段交渉の段になって実
勢価格の6〜8倍の値段を言われた。財政状況から見て あまの街道だけに法
外なお金を使えない。結果、地権者は席を蹴って、決裂した。3.第三者の印象
芥川龍之介の「藪の中」の感。両者同席で話せば、双方の言い分は噛みあう?

因みに 昨日 近畿建設社長が 「あんた等にあげる」と言われたのは写真の
機材を置いた辺りのみであると。あまの街道同好会が土地をもらって喜ぶとで
も思われたのでしょうか?私達は、陶器山の遊歩道、あまの街道沿いの緑、森
を守って欲しいのです。私達の願いは、子ども達の未来の為、地球のため、狭山
を品格ある街に維持したい為に、ただひたすらに狭山に唯一残ったこの森を、
せめてこのまま残して欲しいだけなのです。

    < 110515 近畿圏説社長と遭遇 > 
あまの街道沿いの残された疎林
ツバサの森の写真を撮っていたら偶然、近畿建設 野口社長と遭遇。「あまの街道
同好会」を名乗ると「街道沿いの疎林はあんた等にあげる」と! 何と太っ腹な!
流石 社長! 街道沿いの木々はこのまま残ると考えてよろしいのでしょうか?

< 110514 ノーブレス・オブリージュについて考える >
モコモコと緑湧き上がるツバサの森
古来、金持ちの社会貢献として私財を公共の建造物に投じる事で資産家、権力者
は人々の尊敬を受けてきた。ローマのアッピア街道、フラミア街道、アウレア街
道、カラカラ浴場などは時の資産家、権力者が自家の為ではなく公共の為に造っ
て今に残るローマの重要観光資源になり、その名は千年を越えて今に残る。陶器
山の現造成地の地権者の祖先には狭山に来る前の江戸時代に公共の為に道を造っ
たり、運河を開いたりしたという事蹟があります。(「さまざまなことおもひだ
すさくらかな」より) 偉大な祖先の例に倣ってもらえないかと狭山の未来のた
めに少しでも森を残したい私達は、第二期開発予定地の今熊4丁目665-1の森を
「ツバサの森」と名付けました。

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< 110513 大阪府景観条例について考える >
今熊市民の森を歩く 深い森だからこその緑です ツバサの森(左)と半分埋まった西室池
平成10年10月30日に大阪府景観条例が公布されました。第一章総則第一条に府民
の生活及び文化の反映である都市の景観、歴史的景観及び自然景観の創造又は保
全を図ることにより、風格ある都市空間及び豊かな生活空間を創造し以て府民の
文化的な生活の確保に資することを目的とするとあります。春夏秋冬、鮮やかな
変化を見せる陶器山の景観は正に狭山に日本有数の理想的居住空間を約束するも
のです。都市計画の明確な理念を欠いた行き当たりばったりの町造りの結果は20
〜30年後の無惨なスラム化では? 子孫の代まで、せめて今の環境を残したい。

< 110513 支援センターでブログ講習 >
ブログを立ち上げました
「陶器山ニュース」を3部まで発行しましたが、より多くの方に陶器山、あまの街道
と知って頂くためには、色んなメデイアを使うことだと思い至り、支援センターでブ
ログの講習を受け、早速開設。点より、線より、面を守りたいと「陶器山の森」と名
づけて、発信を始めました。アドレスは http://tokiyamanomori.seesaa.net/ です。
日々の変化を発信していきたいと思います。

< 110501 造成地のノリメンが緑になった! >
苗木が植えられた 110317 吹き付け工法1100401 緑がうっすらと
無惨に地肌を曝していた造成地のノリメンに3月17日にクヌギやアラカシの苗木
が植えられ、4月1日には種子吹き付け工法が施されました。雨が続き、急斜面の
覆土が流れないかと気になっていましたが5月になって、苗木に新芽が付き、地面
には草芽が萌え出てきました。20年後にはキット、以前のような緑のトンネルにな
るだろう! そんな期待をしながら毎日歩いています。

< 110425 署名活動の報告が要るでしょう? >
110425 陶器山ニュース第3号発行
大勢の方達が署名活動に協力して、1〜10枚と署名用紙を預かって署名を集めてくれました。
一人一人への報告が物理的に不可能だから、「第3号」が要るでしょうと言う声におされて、
第3号を出しました。なお、4月12日の署名簿&陳情書の提出日には読売新聞が取材に来庁。
翌日の4月13日朝刊31面に大きく掲載されました。