→TOP
コラム
 vol.1 音楽、絵画、具体性

 最初に人が何かを選ぶとき、感性によって選ぶのならば、所詮技術はその補佐に回ることしかできない。 しかし音楽や絵画が技術の進歩につれて、そのイメージの表現の可能性を拡げてきたとすれば やはりそれらは技法、理論、道具を無視することはできない。
そしてそれらのものは数学や科学の進歩で生み出されてきた。
 私の思うところでは音楽は数学であるという考えは99%当たっている。のこりの1%が感性だ。 音楽は抽象表現である。よって具体性のある表現は現在のような録音技術が現れるまでは不可能だった。 その具体性を音楽に付け加えるのは言語だ。言語は仮定によって成り立っている。 たとえば我々が目で木を見たとき、「木」という言葉が共通にあるため「どこどこに一本の木がある」と、 見た事のない人に伝えることができる。それは木という言葉が「それ」であること仮定し、それを共通に認識しているからだ。
 音楽はそこに言語を用いることで、音のみで具体性を表現する。
 絵画はというとそれは直接目で見ることで成り立つために、具体性を求めるとき、そのものを表現する。 しかしそれは数学にはならない。どこまでいっても似ることしかできないからだ。 言語は固有名詞によってそれがそれであることを100%成り立たせる。絵画は100%には到らない。
 しかし固有名詞というのはそのものを見た事がある人にしか認知できないのだ。知らない人に「それが何か」と聞かれると それはニューヨークにある巨大なビルだとか、世界で一番高い山だとか言わなくてはならない。するとその認知力は急激に落ち込み、 もはや絵画には到底かなわない。
 ではそもそも具体表現とはどんな意味があるのだろう。
絵画の場合、肖像画のようにそれがそのものであることを伝えるために大きな役割を果たした。その場合確実に似る必要があったのだろう。 音楽はと言うと物語り表現、つまり吟遊などだろう。オペラや戯曲は総合的なため音楽とは言えない。 その場合は具体性は固有である物の表現にとどまらず、空想の表現になっていく。 似る必要はない。どこどこに王様がいて、と伝わればいい。
 もともと最初に言ったように感性の表現のみならば抽象であればいいわけで、私たちが知らない言葉の国の歌を聴いたときでも、 何かを感じ取ることができる。これで十分であればいい。
 現代においては具体表現は、技術発展の表現や意外性、五感利用などになっていて単純ではない。 単純な具体表現は音楽の詞のみだろう。写真も「そこにあるものを写している」と言う限り具体表現だが、 ポートレイト以外ではその関連性や心情、質感などによる表現であり、具体表現ではない。
 私が思うには本当に具体性から何かを感じたいのならば、それそのものに触れればいいのではないだろうか。
 例えば我々の目で本物のリンゴをよく観察すればいい。
 私たちは何か感受性に訴えたりするものに触れたい時、芸術やらアートやらにばかり目をやるが、 本当は私たちが物に目を向ける「視点」が一番重要なのではないだろうか。そうすれば具体性の意味はより深くなる。 リンゴの絵に僕らが目を向けたとき、僕らがリンゴをよく観察したことがなかったら果たして本当に理解できるのだろうか。 それは表現者側にも言えることだが・・。 (hayasi keiji,05/8/23)
  →コラムのトップへ