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コラム
 vol.5 放浪する学者〜木村尚三郎追悼〜

 一昨日のことだ。新聞に木村尚三郎が亡くなったという記事が載っていた。私の思考は数秒間、空 虚になった。そして何も考えずに記事を一文字残らず読んだ。

 あの木村尚三郎が亡くなった。76歳だそうだ。フランス中世史の日本の第一人者で、一般的にはこの間の愛知博の総合プロデューサーをやっていたというの が知られているところか。中世学の権威、阿部謹也が亡くなってまだ数ヶ月もたっていないのにまた一人素晴らしい学者が居なくなってしまった。私は 中学、高校と考古学や歴史学に心惹かれ将来その道に進みたいと思っていた。
  そのころよく学校の図書室で阿部謹也の「ハーメルンの笛吹き男」を読んだり、 関内の有隣堂で「中世の窓から」を立ち読みしたりしていた。そしてNHKでは木村尚三郎が「世界わが心の旅」でヨーロッパの都市や集落を旅し、その 他にも木村尚三郎のヨーロッパの都市を巡る番組を数回にわたりやっていた。その番組はとても素晴らしく、私はビデオに録って何度も 見たものだった。木村さんは私の憧れである。

  木村尚三郎は旅する学者だった。トレンチコートを着て一人、旅をしながらいろいろなことに思いをはせ、深く考え、酒を飲んだ。木村さんの書いたエッセイの うち「ヨーロッパ文化史散歩」(音楽の友)と「ヨーロッパとの対話」(日本経済新聞社)が今私の手元にある。二つとも難しい知識を要求するような本ではな い。とても柔らかい文で彼の思考の模索と一人の人間としてヨーロッパを旅し見て感じ考えたことがが書かれている。実に洒脱でなめ らかな例えるなら葡萄 酒のようなものだ。NHKの一連の番組で木村さんは古い石畳の坂道を息を切らせながら登り、登りながら喋る。そして素晴らしい中世の建造物に辿り着くとそ れ を見る喜びをにじませながら語る。その生きた言葉はどんな歴史研究書よりも深くその対象の本質を我々に伝えてくれる。
 NHKにはこの機会にすべての番組を再放送してほしい。そして出版社にはすべての本の再 版を。死んでしまったものはしようがないのである。もうあのにんまりとした笑顔と豪快な飲みっぷりはみられないのだ。死因は肝細胞ガンだそうだ。あっぱれ だ。きっと今ごろデカルトやソクラテスと 天国で楽しく飲み交わしているだろう。いつか仲間に入れてもらいたいものだ。 (hayasi keiji,06/10/20)
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