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コラム
 vol.6 1933という目

昨日実家に帰る途上、上大岡八重洲ブックセンターに寄ってきたのだが、講談社学術文庫の新刊で堀越孝一の「中世の秋の画家たち」なる本が出ていた。
ショックだった。
実を言うとその本はもともと小沢書店から「画家たちの祝祭」というタイトルで出ていたもので、私は堀越先生の本はあまりに絶版が多いので、たまたま川崎は 近代書房で1200円で見つけた時これは絶好かなと買い求めた。そしてゆっくりと読み、つい先日読み終えたところでこれだ。
文庫版は図版も豊富に文の間にちりばめられより文章を読みつつ見比べられるようになった。
しかしそれを見ながら考えていると、何かしっくりこない。
多分それはまさにその図版が豊富なせいなのだ。
 堀越先生はホイジンガの中世の秋の再演を謳っている(私はまだ恐れ多くもその中世の秋を読んでいない。)。どうやらその意図の中には文章が見ている人の 行 為を羅列し、そしてその印象を語る。という、「行為」としての絵画批評というものがあるらしい。
それをしかも少ないトランスパランシーとモノクロの図版で行う。
その先には読者に対し文章から絵を想起することの行為の要求がある。

 誤解を恐れずにいえば、つまりこの本は絵を見ずに読むのがふさわしいのではないか。ということである。

 もちろんそれはこの本を読む興味の根本にかかわることだし、やはりファン・アイクの羅列を見ずして、ロヒールのねじれを見ずして作者の文の情熱を感じき れ ないだろう。でもそれは堀越先生がよく取り上げる、「パリの一住民の日記」を想起させる。つまり読者の想像力の強さそして弱さにあえてゆだねる文章として の本質。わたしは最近出たヤン・ファン・アイクの画集も買って見比べて読んだが、当然この本が書かれた当時はそんなものは出ておらず、フリートレンダーの 本やらなにやらを読みつつ想像するしかなかっただろう。もしかしたら読書としてはその方がずっと楽しいものになるのかもしれない。
というよりもそれが読書なのだ。とここまで言ったが、でもあれだけの量のネーデルラント絵画派の図版はあまり手頃には見られないので、やはり買うには買 う。そして堀越先生に敬意を表して。

 また、一番最後に買った本は中野美代子の「中国の青い鳥」だ。
この本には驚かされた。こんなすごい人がいたのにいままで気づかなかったとは。
中国の民族学、神話、食文化、文学の研究家および、小説家でもあるという中野先生。 なかなかこれだけの研究書を出している人で小説を書いている人はめずらしいと思う。
入手しやすいところではハルキ文庫から「眠る石」という幻想小説がでているようだ。
この「中国の青い鳥」はタイトルに惹かれてたまたま購入した。ちょうど作詞中でその響きがなんとなくイメージを湧かせてくれるような気がしたのだ。タイト ルのエッセイも実に思索探求的な読み解きでとても面白いのだが、中はもっとすごいことになっていた。
 まず目を惹くのが、エロだ。西遊記研究でも知られているようで中国の真摯にして実直な民話世界の研究をしていればこんなことにもなるのだろうが、それに プラスして澁澤龍彦の影響もあり、そ ういうことになると心が弾み文章がいきいきとしてくるかのようなのだ。エロ迷走台風などタイトルだけでも食いつく。そしてグロ(この言葉自体が中野さんに 否定されそう)。とくにカニバリズム(食人) に関することは目をひく。その態度は完全に肯定的であり、それは人の命や文化の方が道徳心や社会的道義よりも上回る。という姿勢だ。
これはただ単に戦中派としての強靭さや、サバイバル意識の高さだけでは計り知れないものがある。

 堀越孝一と中野美代子。この2人はともに1933年生まれ。
 戦争の最中を育ち、戦後の焼け跡で青春時代を送った世代。その力強さにも増して2人には自分の目でものを見る(それは他人の目を通してでも)という姿勢 が あるのではないかと思う。
客観的なものの見方も、主観的なものの見方も、並列に置き、それを少し距離を置いて直感で眺める。 それゆえの直感をなだめ押さえる自制心と、押さえるという意味での行動力。
あるいは冷めた直感。

それは一つの指標になると思わせるに十分な姿勢だ。
 (hayasi keiji,07/12/18)
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