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コラム
 vol.9 肉体の持つ知性〜ニーチェとアフォーダンスとサミュエル・エトー〜

謎かけの様な事をしてみることにする。ぜんぜん答えが見えないのだ。

この一年間毎日このことについて考えてきたが、いまだ考えがまとまらない。それは1つの真理ではなくて、1つの巨大なシス テムのような気もする。もうまとめなくても良いような気もしてきた。 でもとりあえず並べて俯瞰するという形をとって、全体像を見てみたいと思うのだ。「答えなどない。」などと言うのは、その ろくでもない、ひとつの答えなのだから、そんなことを言ってもしかたがない気がする。


以前にセルフ・インタ・ヴューでニーチェとアフォーダンスについて書いた。そこに村上春樹と内田樹を加えて30分煮込むと 今の私の気持ちが出来上がる。


この前、クラシックのラジオ番組を聞いていたときのことだ。大阪のどこかの大学の準教授が、その日放送されたピアノ協奏曲 の演奏の後に、その曲のピアニストについて話し始めた。その大学準教授はその演奏を聴いて、内田樹が武道について書いたも のにあった「体を割る」ということをそのピアニストの演奏(の俊敏さ?)から感じたと言う。そのラジオではクジラとイワシ の群れの比較でその「体を割る」ということを説明していた。

クジラはひとつの巨大な固体であるために方向を変える時に大きく体を捻じるが、イワシの場合、イワシの群れ全体はクジラの ように大きいがそれは小さく分割された部分の集合体であるために容易に方向を変えることができる。という様な事だ。

それをピアニストが実践している。分かるようで分からない話。

内田樹がそのことを書いている本を探してみたら、もっと身体論についてまとまった本があったのでそっちを買った。 「私の身体は頭がいい」(文春文庫)という本だ。

その本は構造主義と武道の交じり合った興味深い文章(思想)で書かれている。
そこに武道の言葉で「居着き」と呼ばれているものについての話があって、その「居着き」は簡単に言うと、「恐怖にとらわれ ると、本来持っている運動能力が格段に落ちる」ということで、そのとらわれた状態のことを指す。これはよく分かる。 そして、その状態にならないようにする方法について、内田は「中枢からの指令抜きで、手足を動かす」しかないという。身体 が知覚情報を「現場で処理する」ということだ。と。

そのことはすでに別なところで知っていた概念だった。

僕の周りには村上春樹の本を読んでいる人がたくさんいるが、僕が読んでいる本を読んでいない人が多い。 そして肝心なことはいつもそこにある。やれやれ。

僕はその内田樹の言っていることを村上春樹の本の中に見つけていた。そしてそれはすでに、ニーチェとリンクしていた。

また、アフォーダンスの提唱者、ギブソンは直接知覚という概念をやはりその「中枢を介さずに直接現場で処理する」というあ り方で説明する。

なんと世界は狭いことか。

内田樹と、もう一人最近よく読んでいるのが、梅原猛だ。その初期の著書「地獄の思想」の中で彼は原始仏教から大乗仏教への仏教の流れを、ショウ ペンハウエルからニーチェへの近代ヨーロッパの思想にたとえる。
「生は盲目の意志によって左右されているかもしれない。しかし、その深く暗い生は、それ自 身において高い歓喜の歌を歌わなかったか。生そのものが、どのような暗さにみちていようとも、その生にたいして、われわれはヤア(ja)というべきではな いか。」
ニーチェはそう言う、と梅原は言う。

ニーチェはツァラトゥストラにこう言わせる。

「肉体はひとつの大きな理性だ。」

「目的地に近づくと踊るのだ。」そう言い、ツァラトゥストラはわれわれに踊ることを覚えろと言う。

そうしてまた村上春樹に僕は取り込まれる。


そして梅原猛は地獄の思想から25年ののち、「森の思想」にたどりつく。


中世フランス史の研究者、木村尚三郎はNHKのドキュメンタリーの中で、「これからは重厚長大なロマネスクの時代が再びや って来る」と予言した。その場所は、巨大な木々に囲まれた森をあらわしたロマネスクの教会堂の中だった。

複雑系の聖地、アメリカのサンタフェ研究所。
セル・オートマトンから生まれたライフゲーム。カオス理論、自己組織化。生態環境のモデル。

自己組織化の論理とプリコジン。アフォーダンスはそこと密につながっている。


つながりそうでつながらない。分かるようで分からない話。


僕はずっと考えてきた。それは「肉体の持つ知性」と僕が呼んでいるものだった。

スペインのサッカーの1部リーグ、”リーガ・エスパニョーラ”のFCバルセロナというチームにサミュエル・エトーという選手 がいた。

僕は彼の動きを見て、「ヒョウみたいだな。」と思った。実際にはチーターだろうか。

彼はピッチの上をサバンナを走るチーターのように優雅に踊るように走り、得点を挙げると歓喜の表情で観客の前に走り寄る。 僕はツァラトゥストラの言う「超人」のイメージにすぐにエトーを重ねた。今も彼はイタリアのミラノで走り回っている。 そこには肉体の持つ知性がある。池澤夏樹の本に描かれたジャック・マイヨールにも同様の知性を感じた。

まだつながらない。いくつものヒント。


謎かけをしよう。

肉体の持つ知性。直接知覚。
内田樹。居抜き。ツァラトゥスト ラ。村上春樹。サミュエル・エトー。ジャック・マイヨール。 森の思想。カオス理論。

これらに共通するものは?

 (hayasi keiji,09/11/24)

-補記-

若干の訂正をしたいと思う。
その後、ちゃんと確認を。と思い、木村尚三郎のNHKドキュメンタリーを見返した。
そうしたらかなりの思い違いをしていたようだ。木村さんが「重厚長大なロマネスク」の話をしたのは、ロマネスクの教会堂ではあったが、そこを「大地に岩 が立ち上がっている」と形容していた。
では、僕が「巨大な木々に囲まれた森」と言ったのは?それはその前に木村さんが訪ねたゴシックの教会堂だった。完全に入れ替えて記憶してしまっていたよう だ。

しかし、よくよく見ていると、ロマネスクとゴシックは自然と文明の関係のあり方の違いであり、基本的なことは変わっていないようだった。
と言うのも、ロマネスクの教会堂は深い山間にあり、周りが自然に囲まれている中で、精神の内面性の安定感のようなものを岩で表しているようにとらえられ る。そして、都市にあるゴシックの教会堂は逆に都市に欠けている自然の静謐さや荘厳さを教会堂の中に再現している。という事のように感じられる。つまり 人間における文明と自然のバランスの問題である。

まあ、どちらにしろ、僕の疑問の解消にはまだつながらないようだ。 見返したことで、他にも発見があったがそれについてはまた書こうと思う。

 (hayasi keiji,09/12/7)
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