→main
コラム
 vol.11 主題と変奏

ここのところ「肉体の持つ知性」の話ばっかりだったので、少し趣向の違う話を書こうと思う。
(だいたい、肉体の持つ知性の話は人に説明するのが難しく、より丁寧に、分かりやすく説明しようとすればするほど、話が複雑になってくるような気がする。 簡単に説明できない話なのだ。)


音楽を作り、演奏する。それが自分のやりたいことなので、毎日それが中心になるように生活していると、ほうっておいても、そのことを考えるようになる。日 常の些細なことからも、音楽を発見するようになる。良くも悪くも。
それで最近、やはりそういうものか。と思うようになったことがある。


クラシックの音楽をラジオで聞いているとたまに、「〜の主題による変奏曲」というものに出くわす。

変奏曲というのはまず基本のメロディがあり、それを最初に演奏し、そのあとだんだんとアレンジ(メロディさえ)を変えてゆく、最後にはまるで違うような曲 になったりして終わる。もしくは戻って終わる。そういうような曲のことだ。

その主題が例えばバッハの「ゴールドベルグ変奏曲」ならバッハ自身が書いたものだが、そうではなく、誰かの曲だったりすることもある。あるいはその方が多 いかもしれない。


そういうのを聞くと、昔の作曲家たちは自由にやっていたものだと思う。
このメロディ良いなあ。これ使っていろいろやってみたいなあ。と思ったらやるのだから。

リミックスだと思うかもしれない。でもすこし違う。そうやって作られた曲はその人の曲として残っている。


僕は音楽っていうのはそうやって作られてきたのだと、今は考えている。

大きな「音楽」という流れがあって、そこでいろいろな人が相互に影響しあって流れがうねり、いろいろなものを巻き込み、下っていくのだ。
ラジオから流れてきた曲を聴いて、影響を受けて、自分の中で「主題と変奏」を行う。みんなそうやってる気がする。ただ表に出さないだけだ。知らない顔をし て自分の作品として発表している。
それ自体は悪くない。さっきも言ったように、主題による変奏曲はその変奏曲を書いた人の作品なのだから。


でも、そういうのを開いた音楽という形で共有するというのはとても自然で素敵だ。


クラシック音楽が指揮者やオーケストラで変化したり、ジャズのスタンダードがいろいろな人のアドリブで鋭くなったり柔らかくなったりする。

作曲もそんな程度のものだと思う。それでも十分にその人の曲になっていると思う。


また、こうも思う。
一人の作曲家がいて、ずっと昔聞いたある曲があまりに素晴らしく、自分もいつかそんな曲を書きたい。そう思って書き続ける。
その曲をずっと自分の中に入れておいて、何度も何度もそれに挑戦する。

本人は納得しないが、周りから見るとすごい曲を山ほど書いているように見える。何でそんなに名曲が書けるんだろうと思う。 でもやはり本人は納得しない。肥大化しているのだ。「ある曲」はその作曲家の中で本物よりも何倍も良い曲になってしまっている。

そういうこともあると思う。それも良いような気もする。ねじまがっているかもしれないが、そういう人生もある。


でもどちらにしてもやはり音楽というのは「主題と変奏」なのだ。と、つくづく思う。
 (hayasi keiji,10/6/17)
  →コラムのトップへ