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コラム
 vol.13  アンドロイド日和

「今は ロボットってことは個性のひとつなんだなって思います」

「ヨコハマ買出し紀行」という漫画に出てくるロボット、ココネの言葉だ。
僕はSFについてはまったく知らないので、詳しいことは分からないが、「アンドロイド」と「ロボット」というのがいる。
アンドロイドとロボットはどうちがうのか。僕はかってにアンドロイドは基本が生体でそれにいろいろな改良が加わっているもの。 ロボットは基本が機械的なもの。と考えている。

ダン・シモンズの”ハイぺリオン”シリーズに登場するアンドロイド・ベティック、通称”A・ベティック”はほとんど人間と変わらない。「作られた」ものだ が、基本的には自由意志を持ち、自分から好んで人間に付き添っている。

そもそも、アンドロイドも自律型ロボットもまだこの世には、少なくとも僕の知っている限り、存在しないので、定義というものがあるはずはない。
いろいろな人が、いろいろな媒体(本、映画、劇など)で作り出したものが、なんとなくひとつの体系のようになっているのだと思う。
だから「アンドロイドとは何ものか」ということを探求することには何か意味がありそうに思う。意識的にせよ、無意識的にせよ、みんなが彼らのことをどう考 えているかが、そのまま、彼らが何ものかという事に繋がる。

A・ベティックは青色の肌を持つ。惑星ハイぺリオンのラピス・ラズリの空のような。
シリーズ3作目「エンディミオン」の主人公、”M・エンディミオン”に肌の色を(人間のように)変えようと思わないのかと問われると、「しかしそれを選択 すると……わたしはおちつかない気分になるのです。非常におちつかない気分になるのです。」と答える。

ヨコハマ買出し紀行の主人公アルファも、ある日、雷に打たれ大けがをしたとき、ベッドの上で修復された髪が元のままの緑色であることに安心する。

それは彼らにとってのアイデンティティのようなものかもしれない。

そういえば、アメリカ・インディアンの一部の人は今彼らが、より中立的であるとされる”ネイティブ・アメリカン”という呼称で呼ばれるようになってきてい ることに憤りを覚えているらしい。
ネイティブ・アメリカンというのはハワイアンなどのインディアン以外の民族も含まれていて、しかも彼らは今や、”インディアン”という呼び名に誇りを持っ ており、「我々はインディアンだ」と言う。

もちろん彼らをアンドロイドやロボットと一緒にするのは良くないだろう。彼らは生身の人間であり強い、しかもそれは現代のどの文明国よりも強いアイデン ティティを持った人間である。
だが、もともと自分たちを総じてあらわす呼び名を持っていない彼らは(彼らの各部族はそれぞれ言語を持ちそれが通じない、つまりひとつの国ではないのだか ら、それも当然なのだが。)差別的ともいえる、よその人間によって付けられた名前に誇りを持っている。その様はさっきのアンドロイドの話を思い出させるの だ。

つまり、逆に言うのが正解なのだ。物語の中のアンドロイドやロボットは、やはりココネの言うように「個性のひとつ」であり、それはりっぱなひとつの種族と いうことなのではないか。

ひ弱な文明人と違い、彼らはいろいろな環境に耐えられるように強くできている。
きっと人間が住めなくなり、いなくなった後の世界でも生きていけるはずだ。

我々には無理でも、彼らには適した「アンドロイド日和」の日々を。
(hayasi keiji,10/9/15)


参照: 「ヨコハマ買出し紀行」(芦奈野ひとし・講談社アフタヌーンKC)
     「エンディミオン(上下巻)」(ダン・シモンズ/酒井昭伸訳・ハヤカワ文庫)


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