vol.14
”編む能力”について
作曲家にもいろいろなタイプというものがあって、メロディーを作るのがうまい人、ノリのいい音楽
を作るのがうまい人、色彩豊かなイメージ表現の
うまい人など、いろいろといる。
でもそれだけでは曲は成り立たない。曲は構成し、組み立てる必要がある。僕はそういうのにも一定の能力的な評価があると思う。
それは言うなれば、”編む能力”だ。
編み物は端から順に作っていくが、最終的には一枚のキルトがバランスの取れた模様になっている必要がある。本物の編み物はやったことはないが、
普通、下絵のようなものがあって、それに基づいて編んでいくのだろうと思う。
作曲にもそういう下絵というものがあればいいわけだが、なくてもそれを曲を思いついたと同時に成してしまう人がいる。そういう人はつまり編む能
力が高いのだ。
ただしこの能力は一種の技能であって、学べばできるようになる部分もかなりあると思う。何度も作曲しているとできるようになる。そしてこの能力
を必要とする箇所はやはりキルトの模様と同じで一種のフラクタルのような構造を持っている。細部のバランスと、大部のバランスがある。
例えば、コードには図形のような一種の形があって、楽器演奏者にはそういうのを捕らえながらコードを作るものもいる。音の響きの持つ調和と音を
構成するコードの形にはある種の関係性がある。(「濁った音は形としても不恰好だ」というような。)
続いて、曲の中のひとつの展開部の一連のコード同士の組み合わせのバランス。よく言う「Aメロのコード進行」とかのことだ。そこにもバランスが
ある。
そして楽曲全体の構成。これはいわば物語の進行のようなものだ。
このようにあらゆる箇所にバランスがある。それは均衡が取れているといいとは限らない。安定していなくても美しいバランスというものもある。黄
金率だけが美しいとは必ずしもいえない。だが形はそれぞれであれ、そのバランスを自分なりに判断し曲を組み上げる。
こういった箇所全てに編む能力が必要とされる。
ちなみに言っておくと、コードのない曲、例えばバッハの”無伴奏バイオリンのためのソナタとパルティータ”などのような曲にもそのバランスの構
造は適用されうる。この場合メロディー自体にコードをつかさどる音を通過させることでコード感をメロディに与えることができる。バッハの曲を含
むバロック期の音楽は実に構造がよく見える。バロック期の音楽はスタイルが個性よりも大きい。
作曲家はみな意識的にせよ無意識的にせよ、作曲の過程でそのような形を捉えていくのだろうと思うのだが、これは先天的な能力なのか学習し身につ
けた能力かはもう分からないだろう。ただこれがないと曲は組みあがらないことだけは確かだと思う。
僕がなぜこの能力の意味をここまで主張するかと言うと、やはり作曲家になる人ならない人はこの能力によって分かれていると思うからだ。
ジャズのプレイヤーのことを考えるとわかりやすい。
彼らはいわゆるインプロビゼーション(即興演奏)を行うわけだが、これはつまるところ簡易的な「メロディーの作曲」ということになる。ただし、コー
ドや曲の持っている雰囲気はもともとの曲のものを借りるわけだから、いくらかやりやすい。「16小節だけソロをとる」と言ったら、16小節分の
メロディーをその場で作るわけだが、もちろんいろいろな曲からメロディを借りてくる場合も多々あるし、人によってはこの人良くこのメロディ出る
よね、というような癖のようなものもある。
その日の調子で変わりもする。「この日のセッションではリーモーガンは絶好調だった。」とか。
調子が悪いと癖に陥ったりする。その癖が好きだと言う人もいる。もちろん作曲しなくても十分個性は発揮できる。クラシックを聴けばそれは分かる
。
話がそれた。つまるところ純粋にその場でメロディを作っている人は少ないが、それでも少しはいる。
だが、そういう人でもあまり作曲しない人も多い。
このように即興でメロディを作れるならなぜ作曲しないのだろう?と僕は常々考えていたのだけれど、多分こういうことができても、作曲できるわけ
ではないのだ。
素敵なメロディ、興奮するリズム、色彩豊かなコードをどう組み合わせるかと言う単純な話ではなく、それらを組み立てながら同時に作る。もっと言
えば全体を最初からイメージするということになる。ここまでいくと後天的には無理じゃないかと思う。
モーツァルトにオーケストラ全体が頭に流れてそれを楽譜におこしていったなどという伝説めいた話が残っているが、あながち嘘とも言えないのでは
ないだろうか。
(hayasi
keiji,10/10/20)
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